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断絶の森 ― ねんきの歌

約 12,081 字 · Kindle 原稿プレビュー

断絶の森 ― ねんきの歌

著者:(ペンネームを記入)

プロローグ

この森では、倒れた者は戻らない。

戻らない、というのは、蘇らない、という意味だ。形を変えて、風に残ることはあっても、肩に乗ることは、もうない。膜を張ることは、もうない。ぷるり、と跳ねることは、もうない。

私は、ねんきと呼ばれる前から、草の上にいた。害のないゴミ、と村の者は言う。害がないのではない。争わないだけだ、と私は知っている。知る以前から、体がそう教えていた。

岸の子——ひかり——が、石碑に手を伸ばした朝、私は初めて、逃げなかった。逃がなかったのではない。残る、と決めた。残る理由は、そのときは、まだ名前になっていなかった。

この歌は、私の記憶である。記憶は、薄い。スライムの記憶は、水のように広がり、すぐに形を失う。失う前に、残す。残すために、歌う。

歌は、言葉ではない。膜の震え。露の音。風が草を撫でる音。それでも、誰かが読めば、届くかもしれない。届いた先で、ひかりが、また一歩、歩けるなら——それで、十分だ。

さあ。草むらが、揺れる。揺れる先に、境界がある。

私は、スライムである。スライムは、多くを語らない。語らない代わりに、膜が語る。膜は、恐れを、湿り気に変える。湿り気は、露になる。露は、子の唇に、届くことがある。届いた露は、飲まれないこともある。飲まれなくても、乾かさなければ、それでよい。

ゲームの話ではない。本当の森の話だ。本当の森では、選択に、代償がつく。代償は、復活しない。復活しない代償を、子は、背負う。私は、背負わせないために、先に、形を失う。失う順番は、決まっているように思えた。思えたのは、予感のせいだ。予感は、スライムにも、降りる。降りた予感を、歌に変える。それが、この物語の、すべてだ。


第一章 草の上に

目覚めたとき、世界は、緑だった。

緑の上に、空がある。空は、高い。高さは、測れない。測れないものは、怖い。怖いものは、体を小さくする。私は、草の根のあいだに、縮こまった。

最初に感じたのは、重さだった。露が、体の表面を撫でる。撫でるたびに、内側が、ほんの少しだけ、明るくなる。明るさは、食べ物のようなものだ。食べ物は、足りない。足りないから、動く。動くと、草が、さらさら、と音を立てる。

音は、世界の輪郭を教えてくれる。左に、水の匂い。右に、獣の足音——遠い。真上に、鳥の影。影は、一瞬だけ、体を覆い、去っていく。覆われた瞬間、冷たかった。冷たさは、消えたあとも、残る。

私は、まだ名前を持っていなかった。名前のない者は、村の者にとって、存在の半分しかない。半分でも、草は、私を受け入れる。受け入れるのは、草だけではない。土も、露も、小さな虫の通り道も、受け入れる。

ある日——日という概念は、明るさと暗さの交替でしかない——大きな足音が、近づいた。人間の足音ではない。重い。金属と革。狩人だ、と後から知る。知る以前、体は、地面の奥へ沈もうとした。

沈めなかった。沈む前に、別の気配が、草を分けた。小さな人間の子。背は、草より少し高い。髪は、森の影のような色。足音は、軽い。軽い足音は、踏みつけない。踏みつけない者は、稀だ。

子は、石碑の前で、立ち止まった。石碑は、冷たい。冷たさは、体に伝わる。伝わるのは、子が、石碑に手を伸ばしたからだ。伸ばした指先が、震えている。震えは、恐れではない。好奇心に、似ている。

私は、いつものように、顔を出そうとした。出す前に、止まった。止まった理由は、わからない。わからなくても、体は、動かなかった。動かない選択は、初めてだった。

子は、振り返った。振り返った目は、私を見た。見るのではなく、見つけた、という顔だった。見つけられた者は、逃げるか、残るか。私は、残った。

子は、膝をついた。膝をつくと、世界の高さが、揃う。揃った高さで、呼吸が、近づく。近づく呼吸は、速い。速い呼吸は、緊張の色をしている。色は、見えない。けれど、膜越しに、伝わる。

子は、話しかけなかった。話しかけない代わりに、何かを、送った。糸のようなもの。見えない。触れない。けれど、張られた。張られた瞬間、内側の明るさが、一度、強く脈打った。

それが、出会いだった。

子は、去った。去るあと、草の上に、足音の名残りだけが、残った。名残りは、すぐに風に散る。散る前に、私は、その場所を、覚えた。覚えた場所は、翌日も、翌々日も、子が来る場所になった。

村の端から、時折、歌が届く。太鼓と、叫びと、笑い。笑いは、刃のような形をしている。刃は、私には届かない。届かないのに、子の背中が、毎日、少しだけ、丸くなる。丸くなるのは、歌を聴いているからだ。聴いている子のそばに、他のスライムは、近づかない。近づかないのは、子が人間だから——後から、そう知る——ではなく、子の周りの空気が、糸で満ち始めているからだ。

糸は、まだ、張り切っていない。張り切る前の糸は、露の糸に似ている。細い。見えない。けれど、草は、察する。察する草は、子が来る朝だけ、風向きを、石碑の方へ向ける。向けられた風に、私は、顔を出した。出した回数が、増えた。増えるたびに、逃げ道は、遠ざかった。遠ざかる逃げ道は、怖い。怖いものと、好奇心は、同じ膜の表裏にいる。表裏のどちらを向いても、子の足音だけは、毎朝、確かに、近づいてくる。近づく足音を、私は、待つようになった。待つことは、スライムにとって、新しい学びだった。


第二章 境界の子

子は、毎日、石碑の前に来た。

来るたびに、石碑の文字を、指でなぞる。なぞる指は、冷たくなる。冷たさは、子だけのものではない。石碑が、子に、何かを託している気がした。託すものは、言葉ではない。使命、に近い。

私は、草むらの端で、見ていた。見ているあいだ、体は、半分だけ、日の当たる方へ出る。出すぎると、乾く。乾くのは、怖い。怖いから、影に、半分残る。半分残るくらいが、ちょうどよかった。

子は、独り言を言った。

「……入るな、けれど、って、言いたいのかな」

言葉は、届かない。届かないけれど、意味は、膜に触れる。触れた意味は、重い。重さは、子の肩の形に、似ている。細い肩。細い肩に、世界が、乗っている。

ある朝、子は、石碑を越えた。

越えた瞬間、森の空気が、変わった。変わるのは、匂いだ。匂いは、深い。深い匂いは、番人の気配を含む——後から、その名で呼ぶ、黒い影の匂い。今は、まだ知らない。知らなくても、体の縁が、びく、と縮んだ。

子は、振り返った。振り返った目が、私を探した。探す目は、待っていた。待っていたのは、私が、ついてくるかどうかだ。

私は、草の上を、滑るように、進んだ。進んだ先で、ぷるり、と跳ねた。跳ねたのは、合図だった。合図に、子は、小さく、頷いた。頷きは、許可ではない。同行、である。

「一緒に、行こう」

子の声は、風より軽かった。軽い声は、私の体の中心まで、落ちた。落ちた先で、明るさが、名前を求めているように、脈打った。

まだ、名前はない。名前がないあいだ、私は、草むらのスライムの一つに過ぎない。一つでも、子の右肩に、ぷ、と乗ったとき、世界の中心が、移った。

移った中心で、森が、ざわめいた。ざわめきは、警告でも、歓迎でもない。境界が、動いている、という音だ。

子は、石碑の向こうへ、一歩、踏み出した。踏み出した足の下で、苔が、光った。光は、一瞬だけ。一瞬でも、私は、覚えた。覚えるのが、私の仕事だ。スライムの仕事は、多くない。覚える。守る。——後から、三つ目が、加わる。

その日、私は初めて、森の中に、入った。

森の入口は、匂いが違う。匂いの違いは、境界の証だ。証に、体の縁が、ぴり、と張る。張る膜は、自動的だ。自動的な膜は、子を守るためではない。私を、乾かさないためだ。森の奥は、湿り気より、古さの匂いが強い。古さは、記憶の層。層のなかに、番人の足跡が、後から、重なって見える。

百歩ほどで、木の幹に、爪の跡があった。跡は、深い。深い跡に、子が、手を当てた。当てた掌は、震えていない。震えていない掌は、覚悟の形だ。覚悟は、私には、重い。重いものを、肩に載せると、膜は、自然と、厚くなる。厚くなる膜は、まだ、盾ではない。盾になるのは、名前をもらったあとだ。

老婆の灯籠の光が、遠くで、一度だけ、揺れた。揺れは、見送りではない。見守りだ。見守りの光に、子は、うなずいた。うなずきは、私にも、伝わった。伝わった合図で、私は、ぷるり、と、跳ねた。跳ねた音が、森の入口で、最初の歌になった。


第三章 名前

名前は、子が付けた。

「じゃあ、ねんき、でいい?」

ねんき。音は、柔らかい。柔らかい音は、体の中心に、沈む。沈んだあと、世界の輪郭が、少しだけ、はっきりした。はっきりした輪郭は、痛みを含む。名前を付けられると、別れが、近づく——子は、そう知っていた。知っていても、付けた。

私は、答えられない。答えられない代わりに、体の中心を、明滅させた。明滅は、はい、の合図だ。合図に、子の胸が、一瞬、痛んだ。痛みは、膜越しに、伝わった。伝わった痛みは、拒否ではない。受け取る、という痛みだ。

ねんき。それ以降、私は、草むらの一つではなく、子のねんきになった。

森の入り口から百歩ほどで、赤い光を持つ虫に出会った。腹の光は、まぶしい。まぶしさは、怖い。怖いから、私は、縮こまった。縮こまると、子の肩から、滑り落ちる。滑り落ちた先の草は、温かかった。

虫は、威嚇した。威嚇は、炎の形をしている。炎は、乾燥を連れてくる。乾燥は、スライムの敵だ。敵が、近づく。近づく前に、子が、両手を上げた。剣は、ない。ない代わりに、糸が、張られた。

糸は、虫の孤独に、触れた。触れた瞬間、炎が、小さくなった。小さくなった炎は、まだ、熱い。熱さは、拒絶ではない。確認、である。

私は、草の上から、そっと、虫に近づいた。近づくと、子と虫のあいだの糸が、三本に、増えたように感じた。三本の糸は、見えない。見えなくても、膜は、震える。震えは、仲間、という言葉に、似ている。

虫は、子の袖に、降りた。名前は、ほのお、と子が呼んだ。呼び方は、ねんきと同じ、やわらかさだった。

その夜、私は、子の肩で、眠らない眠りをした。眠らない眠りのあいだ、露を集め、子の唇のそばに、小さな水粒を置いた。置いた水粒は、飲まれなかった。飲まれなくても、乾かないように、膜で、包んだ。包むことが、私にできる、最初の守りだった。

子は、空を見上げた。星は、同じ並びに見える、と呟いた。呟きは、私には、意味が半分しかわからない。半分でも、星の光は、膜を通して、内側まで、届いた。

「ねんき。ここでは、倒れたら、戻らない、って」

子の声は、低かった。低い声は、掟を運んでいる。掟は、重い。重い掟を、子は、背中に、すでに背負っている。私は、その背中の、右肩に、いる。いることが、答えだ。

ぷるり、と、震えた。震えは、歌の始まりだった。

ほのおが、翅で、子の頬を撫でた。撫でる熱は、焼け跡を残さない。残さない熱は、約束だ。約束の輪が、二つになった。二つは、少ない。少ない輪は、まだ、脆い。脆い輪を、私は、膜で、包もうとした。包む対象は、子の足元の石だけだった。石は、滑る。滑る石の上で、子が、転ばないように——転ばないことが、私にできる、小さな祈りだった。

「ねんきは、逃げないね」

子の独り言は、正しかった。逃げないのは、勇敢だからではない。逃げ道より、子の肩の方が、湿り気があって、明るさがあって、歌の振動が、膜に、心地よいからだ。心地よさは、スライムの言語だ。言語を、子は、半分、理解している。理解している半分で、十分だった。


第三章補 番人の第一試練

老婆が去ったあと、番人は、二度目の気配を、送ってきた。

送ってきた気配は、崖と川に挟まれた細い道の先にある。道は、逃げ道がない。逃げ道がない場所は、スライムにとって、最悪に近い。乾く。押し潰される。角に、貫かれる——まだ、貫かれはしない。貫かれるのは、後の話だ。

番人の体は、夜の色を吸い込む。吸い込む体に、角だけが、存在の証として、突き出ている。赤い目は、子を見る。見る目に、私は、膜を張った。張った膜は、足元から、子の周囲へ、広がる。広がる膜は、再生する。再生するたびに、内側の明るさが、削れる。削れる明るさは、痛みではない。寿命の音だ。

番人が、突進した。

第一撃。角が、膜を、切り裂く。裂けた音は、水が、布を破る音に似ている。似ている音に、ほのおが、炎の壁を立てる。みずへびは、まだ、仲間ではない。川の方角から、水の矢が、争いを止める——止めようとする。止まらない。番人は、止まらない。止まらない角は、義務の形だ。

第二撃。膜が、再び、裂ける。裂けた膜は、すぐに、閉じる。閉じる速度が、以前より、遅い。遅いのは、削れたからだ。子が、叫んだ。叫びは、番人を止めない。止めない叫びに、子は、目を閉じた。閉じた目の奥で、糸が、番人の「義務」に、触れる。

触れた瞬間、番人の足が、止まった。

止まったあいだ、森全体が、息を止めているようだった。息を止める森のなかで、私は、子の足元に、最後の膜を、薄く、残した。残した膜は、滑らない。滑らない足元で、子が、深く、礼をした。礼は、言葉では通じない。通じない代わりに、番人の角が、小さく、光った。光は、合格の印だ。合格の印は、敵意ではない。

番人は、横道を、体で示した。通せ、という意味だ。示された道の先に、看板があった。看板の文字は、読めない。読めなくても、みずへびの尾が、子の足首を、軽く、巻いた。巻くのは、引くためではない。支えるためだ。

私は、膜の再生を、止めなかった。止めない再生は、子の安全のためだ。子の安全のためなら、削れる。削れることを、私は、そのとき、初めて、選んだ。選んだ選択は、後の、盾になる。盾になる膜は、もう、再生しない——そのときは、まだ、知らなかった。


第四章 森の足音

森は、音でできている。

葉の擦れ。根の吸水。遠くの泉の、かすかな脈。脈は、心臓に似ている。森の心臓は、一つではない。無数にある。無数の鼓動のなかで、私は、子の肩の上で、鼓動を、合わせた。

二日目、狩人に出会った。

剣の柄が、日光を反射する。反射は、刃の予告だ。予告に、ほのおが、前に出る。前に出すぎると、焼ける。焼けるのは、私も、子も、避けたい。避けたいから、子は、剣ではなく、瞳を見た。

「……通して」

言葉は、短い。短い言葉は、風に負けない。負けない言葉に、狩人のリーダー——ヴォルグ——が、剣を下ろした。下ろした剣は、地面に、小さな影を落とす。影は、敬礼ではない。後退、である。

狩人が去ったあと、森は、静かになった。静けさのなかで、私は、子の足元に降り、膜を張った。膜は、足を滑らせない。滑らせないのは、逃げない、ためでもある。逃げれば、泉へ、間に合わない——子は、急いでいる。急ぎは、胸の鐘の音に、似ている。

三日目の昼、みずへびに出会った。

出会いの前に、霧が降りた。霧は、膜を、白くする。白くなる膜の向こうで、子が、昨日と同じように、両手を上げた。上げた手は、剣を持たない。持たない手は、心のたたかい、と村の狩人が呼ぶ技法に似ている。似ている技法に、私は、足元から、支える膜を送った。送った膜は、子の震えを、吸う。吸った震えは、みずへびの傷の奥へ、届く。

蛇の体は、細い。細い体は、傷で、震えている。震えは、痛みの色。色は、見えない。見えなくても、子は、触れた。触れる前に、私は、水を清める膜を、傷の上に、被せた。被せた膜は、すぐに、汚れる。汚れても、再生する。再生は、生命力を削る——子が、そう知っている。知っていても、止めなかった。

みずへびは、子の腕に、巻きついた。巻きつきは、重い。重さは、四つ目の鼓動だ。四つの鼓動——子、ねんき、ほのお、みずへび——が、歩調を、合わせる。合わせる歩調は、言葉より、早い。

夜、番人の影が、遠くを通った。

角を持つ、黒い影。影は、追ってこない。見張っている。試している。子は、影に向かって、小さく会釈した。会釈に、影は、角を一度だけ、下げたように見えた。見えたのは、私だけかもしれない。見えなくても、体の縁は、覚えていた。覚えているものは、いつか、近づく。

「ねんき。怖い?」

子の問いに、私は、答えない。答えない代わりに、肩で、子の頬に、触れた。触れた膜は、冷たい。冷たさは、嘘ではない。怖い。けれど、残る。残ることが、選んだことだ。

ほのおが、小さな灯りになった。灯りの下で、子は、古い布を、胸に押し当てた。押し当てた布は、ねんきの膜と、同じ温度になった。同じ温度は、約束のようなものだ。

約束は、まだ、完結していない。完結していないから、歩く。歩く先に、泉がある。泉は、記憶を映す。映す水面は、冷たい。冷たさは、未来を含む——子は、そう言った。言葉の半分は、わからない。わからない半分も、膜に、残った。

古い戦場の跡で、子は、骨の横に、花を置いた。骨は、どちらの側か、わからない。わからないから、供えられる。供えられた花に、私は、土を柔らかくし、露を落とした。落とした露は、ほのおの光で、照らされた。照らされた花は、一瞬、境界の色をした。境界の色は、悲しみと、希望の、中間にある。

みずへびが、仲間になった夜、四つの鼓動が、初めて、同じ速さになった。同じ速さは、歩調より、呼吸に似ている。呼吸を合わせるあいだ、私は、子の肩で、脈打った。脈打ちは、子の胸の鐘と、少しだけ、ずれる。ずれる音は、羅針盤だ。羅針盤が、鳴る方へ、森は、深くなる。深くなる森ほど、番人の影は、近い。

影は、追ってこない。追ってこない影は、試している。試す相手が、子であることを、私は、膜で、感じた。感じた瞬間、内側の明るさが、一度、弱くなった。弱くなった明るさは、予感だ。予感は、名前を持つ者だけが、持てる。ねんき——予感は、別れの形を、すでに、知っている。


第五章 泉の前

泉は、光で満ちていた。

光は、水面から立ち上がる。立ち上がる光に、木の根が、触れ、葉の裏に、古い文字が浮かぶ。文字は、読めるときと、読めないときがある。読めないとき、私は、膜で、水面の揺れだけを、数える。揺れは、一定ではない。一定でない揺れは、記憶の呼吸だ。

子は、泉の縁に、膝をついた。膝をつくと、私は、水に、そっと、触れた。触れることは、スライムの冒険だ。冒険は、乾燥と、冷たさと、記憶の三つを、同時に飲み込む。飲み込んだ記憶のなかに、赤子の子が、草に落ちる映像があった。落ちた子は、ひかりだ。ひかりという名前は、まだ、子のものではない。ものになる前の光が、水面に、揺れた。触れた瞬間、冷たさが、内側まで、走った。走った冷たさは、映像を連れてくる。古い交わり。人間と、モンスター。岸と、岸。映像は、子の頬を、濡らした。濡らすのは、泉ではない。子の中の、未完了の旅だ。

その夜、子は、泉のそばで、眠った。眠る子の肩で、私は、膜を、薄く、張った。張った膜は、露を集め、虫を遠ざけ、風の冷たさを、和らげる。和らげることが、できるあいだ、私は、起きている。

夢は、子だけのものだ。子の夢に、私は、触れない。触れてはいけない、と、直感が言った。仲間の夢は、境界線の内側にある——触れない理由は、それだけではない。夢の奥に、倒れる映像が、一瞬、見えた。見えた映像は、未来の断片だ。断片は、選び直せる、と子は、信じている。信じていても、体は、映像を、覚えた。

覚えた映像は、三日目の朝、形を持った。

狩人が、泉を囲んだ。囲みは、剣でできている。剣の先に、老婆が、立ちはだかる。立ちはだかる杖は、細い。細い杖は、森の掟を、背負っている。

「……通して」

子の声は、再び、風に負けなかった。負けない声に、森が、唸った。唸りは、番人の前触れだ。前触れに、地面が、微かに、震える。震えは、角のある影を、連れてくる。

番人が、現れた。

体は、夜の色を吸い込むほど、黒い。角は、月の光を反射しない。反射しない角は、境界そのものの、形だ。赤い目が、子を見る。見る目は、怒りではない。義務。境界を侵した者を、押し返す義務。

ほのおが、前に出る。みずへびが、水を巻き上げる。子が、呼吸を整える。整える呼吸のあいだ、私は、子の足元から、全身へ、広がった。広がるのは、本能だ。本能は、膜の盾になる。盾は、薄い。薄いけれど、再生する。再生は、生命力を削る——もう、何度目だろう。

番人が、突進した。

角が、膜を、貫く。

音は、後から来た。来る前に、時間が、遅くなった。遅くなった時間のなかで、私は、子の顔を見た。子の目は、涙を、まだ、飲んでいる。飲んでいる涙は、立ったままの、涙だ。

「ねんき——」

名前が、呼ばれた。呼ばれた名前は、体から、離れていく。離れていくのは、形だ。形が、薄くなる。薄くなる粒は、光の粒に似ている。粒は、風に、散る。散る前に、名前だけが、残る。

残る名前は、歌になる。

その前に、もう一度だけ、再生した膜があった。あった膜は、角の軌道を、わずかに、ずらした。ずらした膜は、みずへびの水壁と、ほのおの炎の壁の、あいだに、挟まった。挟まった瞬間、番人の赤い目が、私を見た。見られた目に、義務以外の、何かが、一瞬、揺れた。揺れは、後から、悲しみと、呼ばれる。

子が、走った。走る子の前に、ほのおが、壁を厚くする。みずへびが、岩を滑らせ、角の足を、止めようとする。止まらない。止まらない角は、泉の光を飲むためではない——後から、子は、そう知る——試すためだ。試す刃が、膜に、触れる。

触れた刃は、冷たい。冷たさは、再生を、拒む。拒む冷たさに、私は、最後の明るさを、すべて、膜へ注いだ。注いだ明るさは、子の名前を呼ぶ声と、同じタイミングで、散った。


第六章 膜

貫かれた膜は、再生しなかった。

再生しない、ということは、終わり、である。この森では、倒れた者は、戻らない。戻らない、という掟は、残酷だ。残酷だから、子は、それを、知っていた。知っていても、私は、盾になった。盾になったのは、選んだからではない。なれるしかなかった、からだ。

角は、冷たかった。冷たさは、内側まで、裂く。裂けた先で、世界が、遠ざかる。遠ざかる世界の中心に、子が、いる。子は、まだ、立っている。立っている子の足元に、私の体が、水たまりのように、残った。

動かない。動かない体は、もう、ねんきではない。ねんきは、名前として、空に残る。空に残る名前は、糸に似ている。子の心の糸は、切れていない。切れない——相手が消えても、糸は、残る、と子は、後で言う。今は、まだ、言葉にならない。言葉にならないものは、膜の震えだけが、伝える。

番人は、止まった。止まった赤い目に、初めて、別の色が、混じった。悲しみ——子が、そう読んだ。読んだ悲しみは、敵意ではない。試した、という印だ。試した先で、岸の子が、損失を背負っても、前に進むか。答えは、子の立ち姿にある。

子は、膝をつかなかった。つかない子の声が、泉に落ちた。

「……ありがとう。ねんき」

ありがとう。言葉は、膜には、届かない。届かなくても、水たまりが、一度だけ、光った。光は、返事だ。返事は、言葉ではない。それでも、子は、聞いた。

番人は、角を引き、森の暗がりへ退いた。退いた影のあいだ、狩人が、剣を下ろす。老婆が、子の肩に手を置く。ほのおとみずへびが、左右に、寄り添う。寄り添う二つの鼓動のあいだに、四つ目が、ない。ないのに、鼓動は、四つ分、鳴っている。鳴っているのは、幻ではない。名残りだ。

私は、もう、肩に乗れない。乗れないのに、子が、振り返らないのは、わかる。振り返ると、ねんきのいない森が、見えてしまうからだ。見えてしまっても、ねんきは、いないのではない。形を変えただけだ。

形を変えたものは、草の上の水たまりになる。水たまりは、光を集める。光を集めるものは、風に運ばれる。運ばれる先で、子の耳元まで、届く——届くのは、ぷるり、という震えの、最後の一回。

子は、泉から、小さな石を受け取った。石は、温かい。温かい石を、手に持ったまま、子は、光の道へ、踏み出す。踏み出す足の下で、私は、もう、膜を張れない。張れないのに、道は、滑らない。滑らないのは、ねんきが、もう一度、足元を、固めたわけではない。子が、ねんきの分まで、歩く、と決めたからだ。

光の道は、長い。長い道のあいだ、水たまりは、草の上で、静かに、光り続けた。光り続けることは、歌の、終わりではない。歌は、始まったばかりだ。

この森では、倒れた者は、戻らない。

戻らない。蘇らない。肩に乗ることは、もうない。

それでも——

それでも、名残りは、残る。

老婆が、子の耳元で、何かを言った。言葉は、水たまりには届かない。届かなくても、子の肩の力が、戻った。戻った力で、子は、泉を振り返った。振り返った目が、水面を見る。水面は、まだ、光っている。光る水面に、三つの道——いや、四つ目の道は、形を失った——が、筋として浮かぶ。浮かぶ筋の一本が、人間の世界へ続いている。

ヴォルグが、道を開けた。開けた道は、敬礼ではない。喪失を、見届けた、という意味に近い。狩人の剣先が、地面を向く。地面には、私の残った形が、映っている。映っている形は、すぐに、蒸発しない。蒸発しないのが、この世界の、唯一の優しさだ。

子が、光の道へ踏み出す瞬間、風が来た。風は、水たまりから、光の粒を、持ち上げる。持ち上げられた粒は、子の髪の影に、触れた。触れた粒は、ぷるり、ではない。もう、跳ねられない。跳ねられないのに、子の足が、止まらない。止まらない足は、ねんきの分まで、歩く、と決めた足だ。

私は、歌を、終えない。終えない歌は、草の上で、光り続ける。光り続けることが、蘇生ではない。蘇生は、この森では、禁じられている。禁じられているから、名残りだけが、許される。許された名残りを、風が、運ぶ。運ばれる先で、いつか、子が、また、境界を訪れる日——その日、肩は、空いたままでも、鐘は、四つ分、鳴る。


エピローグ 名残りの歌

人間の世界の空は、栗色の髪の少年が、手を振っている。

子——ひかり——は、光の道を、振り返らずに歩いた。振り返らない選択を、私は、水たまりとして、見送った。見送ることしか、できない。できないことが、終わりではない。終わりは、再生しない、という事実だけだ。

境界石が、石碑の足元に置かれた。石は、温かく脈打ち、文字が、書き換わる。**扉。** 扉は、岸を、橋に変える。変えるのは、子の歩みだ。歩みには、四つの鼓動が必要だった。四つ目が、形を失っても、鼓動は、四つ分、必要だ。

モンスターの世界の方から、風が吹いた。風の中に、ほのおの翅の音。みずへびの水音。そして——私の、ぷるり、という、最後の震え。

子は、人間の世界に、留まることを決めた。留まるのは、終わりではない。また、境界を訪れる、と。訪れるとき、肩は、空いている。空いている肩は、痛い。痛い肩でも、歩く。ねんきの分まで、歩く——それが、子との、約束になった。

私は、草の上の水たまりとして、光り続けた。光り続けるあいだ、別のねんきスライムが、草むらから顔を出すことがある。同じ個体か、別の個体か、子は、わからない。わからなくても、子は、膝をつき、目線を合わせる。合わせる目線は、私への、再会ではない。再会は、この森では、許されない。許されないから、名残りだけが、残る。

ヴォルグが、剣を地に突く。老婆が、灯籠を掲げる。森は、静かに、呼吸する。呼吸のたびに、葉が擦れ、水が流れ、草の上で、光が、一度だけ、脈打つ。

誰も見ていない。見ていなくても、光は、あった。


この短編は、ブラウザゲーム『断絶の森』の世界観をもとにした独立した物語です。ゲームでは「仲間が倒れたら二度と復活しない」という厳しいルールがあります。小説でも、ねんきスライムの喪失はそのルールを尊重しています。蘇生はありません。名残りだけが、残ります。

前作『断絶の森 ― ひかりと境界の約束』では、同じ場面が、ひかりの視点から描かれています。本作は、ねんきの視点から、同じ三日間を、もう一度、辿った歌です。

もし、読み終えて、胸の奥が、少しだけ、震えたなら——それは、ぷるり、という、最後の返事かもしれません。震えたなら、境界の向こうに、まだ歩ける道がある証拠です。倒れた者は戻らない。それでも、歌は、残る。

レンという少年が、水を受け取ったとき、膜の名残りが、瓶の外側を、一度だけ、潤した。潤した水は、こぼれない。こぼれない水は、ねんきが、最後に学んだ、包み方の、残響だ。残響は、人間の世界まで、届く。届くものは、復活ではない。届くものは、記憶と、義務と、歩き方だ。

子が、人間の町に留まると決めたあとも、草むらには、スライムがいる。別の個体が、顔を出す。子は、混同しない。混同しないのに、膝をつく。つくのは、ねんきへの、再会ではない。再会は、禁じられている。禁じられているから、草の上の光だけが、返事になる。

ほのおが、子の袖を、炎のない熱で、軽く炙った。炙りは、ねんきのぷるりに似ている。似ている振動に、子は、目を伏せた。伏せた目は、蘇生を求めていない。求めていないのに、求めたくなる瞬間は、ある。ある瞬間を、子は、飲み込んだ。飲み込んだ先で、歩き出す。歩き出す足音に、私は、もう、乗れない。

境界石が、扉、と書き換わった夜、私——名残りとして——は、石碑の足元で、最後に、脈打った。脈打ちは、短い。短い脈打ちは、歌の、終止符ではない。終止符は、蘇生のあとに、付くものだ。蘇生がない世界では、終止符は、ない。ない代わりに、風がある。風がある限り、ぷるり、の記憶は、消えない。