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断絶の森 続編 ― 扉のむこう

約 18,285 字 · Kindle 原稿プレビュー

断絶の森 続編 ― 扉のむこう

著者:(ペンネームを記入)

プロローグ 扉のむこう

人間の世界の空は、森の空より高く見えた。

ひかりは、石畳の路地の端で、背中を壁に預け、息を整えていた。左腕には、小さな炎の残り——ほのおむしが、人間の町では目立たぬよう、灯りのように縮んでいる。右腕には、みずへびちゃんが、袖の下で、静かに脈打っていた。肩には、もう何も乗っていない。ねんきの分の重さだけが、骨の奥に残っている。

三日のあいだ、森で歩き、泉で記憶を見て、番人の試練を受け、仲間を一つ失い、境界石を置いて、ここへ来た。石碑の文字は、もう「入るな」ではない。**扉。** 入るな、と言いかけていた森は、今、通れることを、石に刻んでいる。

「ひかり」

声は、人間の少年のものだった。レン。同じ星を見上げた、と言った子。彼は、ひかりの隣に、妹を抱えながら立っていた。妹の名は、サキ。七つ。頬は、朝露のように白い。

「ここから先は、町の人が多い。顔を隠して」

レンは、自分の外套を、ひかりに渡した。外套は、薬屋の匂いがした。人間の世界の匂いは、きのこスープとも、森の露とも違う。違うから、胸の鐘が、少しだけ、遅れて鳴った。

ひかりは、外套のフードを深く被り、うなずいた。

「サキを、助けに来た。それだけ」

「それだけ、で十分だ」

レンは、笑おうとして、笑いきれなかった。人間の町は、モンスターの村より、はるかに広い。広いぶん、恐れも、大きい。

ひかりは、空に消えたねんきの糸を、意識の端で確かめた。糸は、切れていない。相手が形を変えても、糸は、空に残る——泉の前で、そう学んだ。

扉のむこうは、人間の朝だった。扉のこちらは、まだ、ひかりの物語の、続きだった。

前作で、境界石は「扉」に変わり、ひかりは人間の世界へ踏み出した。ねんきスライムは、もう戻らない。それでも、歩く。ねんきの分まで、歩く——それが、岸の子との、境界の約束だった。

この続編は、その朝から、数えて七日の記録である。七日のあいだ、ひかりは偏見と向き合い、眠る妹に手を差し伸べ、再び森へ戻り、ゆるむ境界に、心を通わせる。仲間が倒れたら、もう二度と戻らない。掟は、変わらない。変わらないからこそ、生きている仲間を、無理に戦わせない。

さあ。石畳を踏もう。踏む先に、薬屋の看板があり、看板の向こうに、ベッドで浅い呼吸をする女の子がいる。

扉は、開いた。開いた扉は、閉じない。閉じないから、守らなければならない。


第一章 人間の町

石畳は、靴底を冷やした。

ひかりは、レンの後ろを、三歩の距離でついていく。フードの隙間から見える世界は、狭い。狭いぶん、人の目つきだけが、はっきりした。子どもが指をさす。大人が、唇を噛む。誰も、声にはしない。声にしない偏見は、苔のように、路地の石の隙間に育つ。

「……モンスター使い」

ひかりは、耳にした言葉を、反復しなかった。モンスターの村では、「人間」と呼ばれた。人間の町では、「モンスター使い」と呼ばれる。呼び方が違うだけで、中身は、同じ拒絶だと、わかっていた。

レンが、振り返らずに言った。

「聞くな。聞いたら、足が遅くなる」

「遅くても、止まらない」

「うん。それが、お前らしい」

薬屋は、路地の曲がり角にあった。木の看板に、研いだ石の臼と、草の絵。レンは、扉を開ける前に、一度、深く息を吸った。吸った息は、妹の名前と一緒に、吐き出された。

「サキ」

店内は、乾いた薬草の香りで満ちていた。奥の部屋のベッドで、サキは眠っていた。眠りは、休息ではない。逃げでもない。境界の病——レンは、そう呼んだ。扉が開いた瞬間、人間の世界とモンスターの世界のあいだに、細い風が漏れ、その風が、子どもの肺に、刃のように入る、と。

ひかりは、ベッドの端に膝をついた。サキの手は、小さく、冷たい。冷たさは、みずへびちゃんが治せる傷とは違う。治す以前に、原因を、読む必要がある。

ひかりは、目を閉じ、心の糸を、サキの恐れへ伸ばした。

恐れの形は、扉だった。開きっぱなしの扉。向こうに、緑の森。こちらに、石畳。サキは、どちらにも属せない、と感じている。属せない不安が、呼吸を浅くしている。

「……ひかり、どうした」

「助けられる。けれど、時間が要る」

レンは、安堵と疑いを、同時に飲み込んだ。

「町の長老は、扉を閉じろと言っている。閉じれば、サキも、お前も、森も、全部消える、と」

ひかりは、サキの額に、手の甲を置いた。触れた瞬間、胸の鐘が、短く鳴った。良い音ではない。警告に近い。

「閉じたら、死ぬ。閉じないなら、怖い。——サキは、そう言っている」

レンは、言葉を失った。妹の心の声を、初めて、他人の口から聞いたのだ。

店の外で、足音が近づいた。重い靴。金属の擦れる音。ひかりは、フードを押さえ、奥の部屋の影に身を寄せた。レンだけが、応接の間へ出ていった。

「レン。長老が、呼んでいる。あの子——岸の子を、町から出せ」

扉の向こうで、レンの声が、低く震えた。

「サキが、助かるまでは、出さない」

「助かるなど、神話だ。モンスターの世界ごと、災いだ」

足音が、遠ざかる。遠ざかったあと、ひかりは、ほのおむしに、耳のように触れた。炎は、怒りではなく、警戒の温度に上がった。

人間の町は、広い。広いから、逃げ場も多い。けれど、ひかりが来た理由は、逃げるためではない。ねんきが、草の上で光ったように——消えても、道を照らす者がいるなら、歩く。

夜、薬屋の屋根裏で、ひかりは、泉から持ってきた水を、小さな瓶から、一滴だけ、サキの唇に落とした。ねんきの膜で包まれた水は、こぼれない。こぼれないから、希望も、こぼれない。

サキの呼吸が、わずかに深くなった。わずか、で十分だ。十分な変化は、明日を、作る。


薬屋の奥で、ひかりは、レンから、人間の世界の「掟」を聞いた。

町には、教会もある。教会の鐘は、境界を神の領域と、それ以外に分ける。モンスターは、神の領域の外——だから、触れてはならない、と子どもたちは教えられる。教えは、石を投げる理由になる。

「僕は、信じてた。信じてたから、サキが病んだとき、僕も、扉を閉じろと言いそうになった」

レンの声は、夜の闇に溶けた。

ひかりは、窓の外の星を見た。

「閉じることと、守ることは、違う。お兄ちゃんは、もう、気づき始めている」

「気づいたのに、長老の使いが来たら、僕は、何も言えなかった。弱い」

「弱くても、サキのベッドの前に、立っていた。立った人間は、弱くない」

レンは、しばらく黙り、茶碗を置いた。茶碗の底が、トン、と小さく鳴った。

「……お前、本当に、十二?」

「森では、もう一人前に近い、と言われる。人間の町では、子どもに見えるかもしれない」

「子どもに見える子が、世界を繕うんだから、不公平だな」

ひかりは、初めて、声に出して笑った。笑いは、短かった。短くても、レンの肩の力が、抜けた。

屋根裏の梁のあいだを、みずへびちゃんが、細い光の線のように泳ぐ。泳ぐ先で、サキの寝息が、もう一度、深くなった。深い寝息は、小さな勝利の音だった。


第二章 眠る妹

二日目の朝、サキは、まだ眠っていた。

眠りの色が、一夜で、わずかに変わった。青白さに、薄い桃色が混ざる。混ざるのは、泉の水のせいか、ひかりが夜中に張り続けた心の糸のせいか、わからない。わからなくても、レンは、ベッドの柵を握りしめ、指の関節を白くした。

「……ありがとう、ひかり」

「まだ、終わっていない」

ひかりは、屋根裏の狭い窓から、町の広場を見下ろした。広場には、人が集まっていた。集まる中心に、白髪の長老が立ち、石碑の写し——人間の世界側にも、境界を示す石があるのだと、レンが教えてくれた——を指さしている。

「扉を閉じよ。開いたままでは、病が町中に広がる」

群衆のざわめきは、波のようだった。波は、岸を侵食する。ひかりは、侵食される岸に、自分が立っている感覚を、覚えていた。

午後、レンは、長老との話し合いから戻った。頬に、赤い指の跡があった。打たれたのか、自分で掴ったのか。

「三日後、広場で『封印の儀』をする。あの石の写しに、人間の血と、祈りを注ぐ。扉が閉じれば、サキも、お前も、森の連中も、全部、元に戻る——そう信じている」

「元には、戻らない」

ひかりは、短く言った。前作で、境界石は「入るな」から「扉」へ変わった。書き換えられたものを、元に戻すことは、時を戻すことと同じで、誰にもできない。

レンは、サキの手を取った。

「儀式の前に、サキを起こせないか」

ひかりは、みずへびちゃんと、ほのおむしを見た。二匹は、ひかりの袖の下で、小さく応えた。応答は、言葉ではない。温度と、脈と、光の点滅だ。

「起こすには、二つ要る。泉の水を、もう少し。そして、サキが恐れている『扉』の意味を、変えること」

「変える?」

「開きっぱなしは、怖い。けれど、扉は、閉じるためだけに、あるわけじゃない。通るためにも、ある」

レンは、しばらく黙った。黙ったあと、初めて、ひかりの目を、まっすぐ見た。

「お前は、人間の子なのか」

「岸の子」

ひかりは、前作の結末で、レンに言った言葉を、繰り返した。人間の子でも、モンスターの子でもない。岸に立つ者。

レンは、うなずいた。

「岸の子なら、うちの屋根裏で、もう一晩、いていい。長老の使いが来たら、僕が止める」

夜、サキの夢に、ひかりは、もう一度だけ、糸を通した。夢の中の扉は、今度は、少しだけ小さかった。小さくなったのは、扉が閉じたからではない。サキが、扉に近づいたからだ。

近づいた先で、草むらの光が、一瞬だけ見えた。ねんきの名残りのような、ぷるりとした光。

ひかりは、夢の手前で、そっと離れた。仲間の夢は、境界線の内側にある——それも、泉で学んだことだった。

三更、町の遠くで、鐘の音が鳴った。人間の世界の鐘は、森の鐘とは違う音色だった。けれど、鳴るたびに、胸の奥の遅れた鐘が、共鳴した。

境界は、弱っている。

ひかりは、瓶の水を、もう一滴だけ、サキの唇に落とし、独り言を言った。

「ねんきの分まで、助ける」

風が、屋根裏の窓を撫でた。撫でられた先の空に、星は、森で見たのと、同じ並びで瞬いていた。


昼間、ひかりは、一度だけ、店の前の路地に出た。フードを深く被り、水汲みのふりをした。路地では、女たちが、洗濯物を揺らしながら、話していた。

「あの子がいるから、うちの牛が、乳を出さない」

「いいえ、牛は、境界の病のせいよ」

「どちらにせよ、あの子は、よくない」

ひかりは、反論しなかった。反論は、糸を、切る。代わりに、牛舎の方へ、意識を伸ばした。牛は、病んでいない。ただ、飼い主の不安が、乳を、遠ざけている。

ひかりは、短く糸を送った。——怖がらなくていい。あの子は、牛を、食べない。

戻ったとき、レンが、不思議な顔で言った。

「牛が、鳴いた。朝から、鳴かなかったのに」

「偶然、かもしれない」

「偶然を、積み重ねたら、証明になる」

ひかりは、うなずいた。積み重ねは、ねんきの歩み方にも似ていた。一日だけでは、仲間になれない。三日で、も、なれない。それでも、隣を歩く許可は、もらえる。

サキの枕元で、ひかりは、前作の泉の記憶を思い出した。母の手。光の束。封印。封印が、今、ゆるんでいる——老婆は、まだすべてを語らない。けれど、ゆるみは、サキの病とも、裂け目とも、同じ根から伸びている。

「お母さん、どこ?」

サキが、夢の中で、呟いた。呟きに、ひかりは、糸で答えた。——ここに、いるよ。岸に、いるよ。

サキの眉が、ほどけた。ほどけた眉の上で、ひかりは、自分の中の母への問いを、また、泉の底へ預けた。預けたまま、瓶の水を、落とし続ける。一滴が、一夜を支える。


第三章 石畳の囁き

三日目、サキの目が、開いた。

開いた目は、まだ霧を通した玻璃のようだった。けれど、瞳は、ひかりを追った。追うということは、認識があるということだ。

「……おにいちゃん?」

「うん。ここにいる。それから——」

レンは、言葉を詰まらせ、ひかりを見た。ひかりは、フードを下ろし、サキの視線を受け止めた。受け止めるのに、勇気は要らない。要るのは、誠実さだけだ。

「サキ。私は、ひかり。お兄ちゃんの、友だち」

サキは、しばらくひかりの腕を見た。袖の下で、みずへびちゃんが、わずかに動く。動きを見たサキは、驚くより、安心した顔をした。

「……水の、へび?」

「みずへびちゃん、だよ。怖くない」

みずへびちゃんは、ひかりの指示で、指先まで伸び、サキの手の甲に、冷たく優しい水膜を張った。膜は、熱を奪うのではなく、不安を、静かに包んだ。

サキの呼吸が、深くなった。

店の扉が、激しく開いた。長老の使い——二人の男——が入ってくる。レンが、間に入った。

「病人に、風を入れるな」

「風ではない。災いを入れるな、だ」

使いの一人が、ひかりを見つけ、叫んだ。

「そこにいる怪物使いを出せ! 長老の命令だ!」

ひかりは、立ち上がらなかった。立ち上がると、戦いの形になる。戦いは、掟に従わない者を生む。掟は、残酷だ。倒れたら、もう二度と。

ほのおむしが、袖の中で、温度を上げようとした。ひかりは、意識で、炎を鎮めた。鎮めるのは、弱さではない。選ぶことだ。

「レン。サキを、奥へ」

レンは、妹を抱き上げ、部屋の奥へ下がった。ひかりは、応接の間に、ひとりで立った。alone ではない。空に残るねんきの糸と、ほのおと、みずへびが、背後にある。

「私は、人間の子にも、モンスターの子にも、属さない。岸の子だ」

使いは、笑った。

「岸など、どこにもない。お前のような者がいるから、境界が病む」

ひかりは、使いの恐れに、糸を通した。恐れの奥に、古い物語があった。人間とモンスターが戦った時代。負けた側の記憶が、長老の祈りに乗っている。

「境界は、お前たちの憎しみで病んでいる。ひかりで病んでいない」

使いは、言葉に詰まった。詰まった隙に、ひかりは、店を出た。出るのは、逃げではない。広場へ行く。行かなければ、封印の儀が、勝手に始まる。

石畳の広場には、すでに人が集まっていた。中央の石碑の写しは、冷たく光っていた。長老が、白い杖を掲げ、祈りを始めようとしている。

ひかりが広場に入った瞬間、ざわめきが、一斉に止んだ。

止んだ沈黙の中で、サキの小さな声が、レンの背中から漏れた。

「……おにいちゃん、あの子を、いじめないで」

子どもの声は、大人の祈りより、鋭く刺さる。長老の杖が、空中で止まった。

ひかりは、石碑の写しに近づき、手を伸ばさなかった。伸ばすと、また境界が揺れる。代わりに、声を上げた。

「この扉は、閉じるためだけのものじゃない。通るためのものだ。通らなければ、サキは、また眠る」

長老は、眉をひそめた。

「通れば、災いが広がる」

「通らなければ、希望が死ぬ」

群衆の中から、石が投げられた。石は、ひかりの肩を掠め、石畳に跳ねた。跳ねた音より、胸の鐘の方が、大きく鳴った。

ほのおむしが、一瞬だけ、翅を広げた。ひかりは、広げさせなかった。

「たたかわない」

その言葉は、前作で、ヴォルグの剣の前でも、番人の角の前でも、同じだった。たたかわない。心を通わせる。

ひかりは、投げた子ども——十歳くらいの男の子——に、糸を通した。子どもの恐れは、単純だった。見たことのないものは、悪い、と教えられた。

糸は、教えを越えない。越えなくても、触れられる。

男の子は、泣きそうな顔で、地面の石を拾い上げた。拾い上げ、置いた。置いた瞬間、群衆のざわめきが、波のように、後退した。

長老は、杖を下ろした。

「……儀式は、明日に延ばす。それまでに、証明しろ。あの子が、本当に助かると」

ひかりは、うなずいた。うなずいた背中で、レンが、サキを抱え、小さく言った。

「証明、するよ」

石畳の囁きは、まだ、偏見の言葉を含んでいた。けれど、囁きの隙間に、別の言葉が、入り込んだ。——見てみろ、と。——怖いだけかもしれない、と。

扉のむこうの町は、まだ、拒絶の町だった。拒絶の中に、疑いの芽が、出始めていた。芽は、小さい。小さいから、踏まないで育てなければならない。


その夜、長老の使いの一人が、薬屋の扉を、こじ開けようとした。レンが、内側から棒を当て、止めた。

「病人を、連れ出すな」

「連れ出すのは、病人じゃない。怪物使いだ」

扉の外で、争う音。ひかりは、サキの枕元に座ったまま、心の糸を、扉の向こうへ伸ばした。使いの怒りの奥に、娘の病気への、無力さがあった。無力さは、怪物への矛先に、変わりやすい。

ひかりは、糸で、短い言葉を送った。——お前の娘は、治るかもしれない。怪物ではなく、岸の子が、治すかもしれない。

使いは、動きを止めた。止まったあと、低い声で言った。

「……証明しろ。明日の丘で」

足音が、遠ざかった。遠ざかったあと、レンが、奥へ戻り、額の汗を拭った。

「明日、丘へ行くのか」

「行く。サキも、連れて行く。歩ける子は、歩く。歩いた子の目で見た真実は、長老の祈りより、重い」

サキは、眠りながら、小さく呟いた。

「……おにいちゃん、あした、いっしょ?」

「いっしょだよ」

ひかりは、サキの手に、自分の指を置いた。指のあいだを、みずへびちゃんが、冷たい膜で、優しく繋いだ。繋いだ先で、サキの夢の扉が、もう一度、小さくなった。


間章 外れの村の夜

ひかりが人間の世界にいるあいだ、外れの村は、眠れなかった。

狩人の詰所で、ヴォルグは、剣を磨いていた。磨く音は、規則正しい。規則正しさは、不安の反対側にある。

「リーダー。裂け目から、骨の音がする」

若い狩人の声が、震えた。ヴォルグは、剣を鞘に収めた。

「行くぞ。老婆のところへ」

村の端の小屋——老婆が、ときどき食べ物を置いていくあの小屋——の前で、灯籠の火が、揺れていた。老婆は、座ったまま、泉の方を見ていた。

「ひかりは、まだ、人間の町にいる」

ヴォルグは、言った。

「戻らないのか。裂け目が、広がっている」

「戻る。戻る前に、あちらで、仕事をする。あちらの仕事が、うちの裂け目を、小さくする」

老婆は、うなずいた。

「お前は、あの子を、殺さなかった。殺さなかった狩人は、村では、珍しい」

「珍しいから、信用されない」

「信用は、要らない。守れ、とだけ言われている」

ヴォルグは、長老——村の長老——の小屋へ向かった。長老は、床に座り、古い巻物を読んでいた。

「外れの子が、戻るという」

「戻る。戻ったら、殺すのか」

長老は、巻物から目を離さなかった。

「殺せば、境界が崩れる、とお前は信じている。信じるなら、殺すな」

「では、何をする」

「使え。使えば、村は、外れの子に依存する。依存は、恐れより、ましだ」

ヴォルグは、巻物の端を、指で叩いた。

「俺は、狩人だ。依存は、狩りの敵だ」

「では、待て。待てば、敵ではなく、柱になる」

夜風が、小屋の隙間から入り、灯籠を揺らした。揺れた光の中で、老婆が、紙切れを一枚、風に任せた。紙は、森の方へ飛び、光の道の入口で、燃えずに、くすぶった。

くすぶった煙は、人間の世界の井戸の上で、ひかりの外套の袖に、かすかに触れた——そのとき、ひかりは、まだ、サキの夢に糸を通していた。触れに気づいたのは、後からだった。

外れの村の鐘は、鳴らなかった。鳴らない代わりに、草むらの水たまりが、一度だけ、光った。

ヴォルグは、剣を地に突き、誓いを繰り返した。

——戻ってきたとき、ここで、待つ。

待つことは、弱さではない。前作で、ひかりが越えた瞬間に、彼が学んだ、唯一の敬い方だった。


第四章 こころの糸

四日目、ひかりは、サキと、町の外れの丘へ行った。

行くのは、逃げではない。証明のためだ。レンが、薬草の籠を担ぎ、サキが、レンの手を握っている。サキの足取りは、まだ不安定だった。不安定でも、前へ出る。

丘の上から見えるのは、石畳の町全体と、遠くの森——モンスターの世界へ続く、緑の帯。帯の手前に、境界の石碑の写しが、小さく光っている。

「サキ。怖い?」

サキは、うなずき、また首を振った。

「怖い。けど、おにいちゃんが、いる」

「おにいちゃんだけ、じゃない」

ひかりは、袖をめくり、みずへびちゃんを見せた。ほのおむしも、控えめな灯りとして、肩に乗った。サキは、指先で、炎の光を触ろうとして、触らなかった。触らないのは、賢い。

「触っても、燃えない。ほのおむしは、仲間だから」

サキの目が、少しだけ大きくなった。

「……仲間?」

「倒れたら、もう戻らない、という掟がある。だから、大切にする」

ひかりは、ねんきの名残りについて、触れなかった。触れなくても、空の糸は、ひかりだけが感じている。サキには、まだ、言葉で十分だった。

丘で、ひかりは、心の糸を、サキと、町全体のあいだに、張った。一本ではない。二本、三本。交差しないよう、呼吸を合わせる。吸う。吐く。前作の「こころのたたかい」で学んだ、呼吸のリズムだ。

サキの恐れは、扉だった。町の恐れは、境界だった。二つの恐れは、同じ形をしている。同じ形なら、同時に、緩められる。

「サキ。扉は、何が見える?」

「……森」

「森の、どこ?」

サキは、目を閉じた。

「草。光。ぷるり、ってする光」

ひかりの胸が、きゅっと鳴った。ねんきの名残りを、子どもが、恐れではなく、記憶として見ている。

「それは、友だちの、かけらだよ」

サキの手が、ひかりの指に、触れた。触れた瞬間、糸が、結ばれた。結ばれた先で、サキの呼吸が、さらに深くなった。

丘の下の町で、鐘が鳴った。昼の鐘。鐘と同時に、境界の石碑の写しが、わずかに、熱を帯びた。熱は、危険の合図だった。

レンが、顔を上げた。

「……何か、おかしい」

ひかりは、森の方へ、意識を伸ばした。伸ばした先で、古い怒りが、境界の裂け目から、漏れている。漏れは、人間の世界だけの問題ではない。モンスターの世界側でも、何かが、起きている。

「私、一度、戻らなければならない」

レンの表情が、固まった。

「戻る? 森に?」

「境界が、両側から、弱っている。サキを助けたのは、ここだけの半分。もう半分は、あちらで、守らなければならない」

サキが、ひかりの袖を、掴んだ。

「いくの?」

「いく。戻ってくる」

約束は、軽いものではない。前作で、ひかりは、レンに、岸の子として、約束を交わした。今、人間の町の丘で、もう一度、同じ重さの言葉を置く。

レンは、サキの手を握り直し、うなずいた。

「証明、は半分できた。残り半分を、頼む。僕は、長老を止める。儀式が、始まらないように」

ひかりは、泉の水の瓶を、レンに渡した。

「あと三滴。サキに、一日一滴。それと——」

ひかりは、境界石の欠片——老婆が渡した、温かく脈打つ小石——を、レンの掌に置いた。

「これを、石碑の写しの足元に、置いて。置くとき、『閉じる』じゃなく、『通る』と、言って」

レンは、石を、神聖なもののように、両手で包んだ。

夕暮れ、ひかりは、町の外れの古い井戸のそばで、立った。井戸は、境界の「裏口」だと、泉の記憶で見た場所と、重なる。レンだけが、見送りに来た。

「ひかり。サキが、言ってた。『あのおちゃん、空を見る目が、お母さんみたい』」

ひかりは、答えなかった。答えは、まだ、泉の底にある。

「……行ってくる」

ひかりは、井戸の底に、意識を落とした。落とした先に、緑の光。光の道を、ほのおとみずへびと、空に残るねんきの糸と、共に歩く。

人間の町の石畳は、足元から、消えた。消えた先に、森の匂いが、戻ってきた。

扉のこちらへ、帰る旅が、はじまった。


丘を下りる途中、長老が、一行の従者とともに、道を塞いだ。杖は、まだ、祈りの形をしている。

「証明は、できたのか」

サキが、レンの背から、顔を出した。

「できた。お姉ちゃんが、扉を、怖くなくしてくれた」

長老の眉が、動いた。動きは、怒りではない。計算の外れた驚きに近い。

「……お姉ちゃん、か」

ひかりは、フードを下ろし、礼をした。

「長老。封印の儀は、中止してください。中止しなければ、裂け目は、塞がらず、広がる。塞ぐには、通ることが、要る」

「神の言葉に、逆らうのか」

「神の言葉は、人の恐れを、包む布だと、聞きました。布を、裂けば、寒い。布を、橋にすれば、渡れる」

長老は、長く、サキを見た。見たあと、杖を、地面に、一度だけ、顿させた。顿させた音は、承認ではない。猶予だった。

「三日。三日のあいだ、儀式を、延ばす。三日のあいだに、裂け目が、広がれば、お前の言葉は、嘘だ」

「三日で、繕います」

ひかりは、井戸の方へ、歩き出した。歩き出す背中に、長老の声が、もう一度、落ちた。

「——岸の子よ。お前の母は、かつて、この町の、希望だった」

ひかりは、立ち止まった。立ち止まらない。止まれば、涙が、足を止める。

「希望は、まだ、生きています」

それだけ言い、光の道へ、落ちた。


第五章 帰る森

光の道を抜けた先は、見覚えのある森だった。

草むら。石碑。文字は、**扉。** 入るな、ではない。通れ、と言っている。

ひかりは、石碑に手を置いた。石は、温かい。温かさは、老婆の掌の記憶を呼んだ。呼んだ瞬間、森の奥から、足音がした。重い靴。金属と革。

ヴォルグだった。

狩人のリーダーは、剣を地に突いたまま、ひかりを見ていた。前作の結末——ひかりが人間の世界へ踏み出す瞬間、ヴォルグは、剣を地に突き、誓った。お前が戻ってきたとき、ここで、待つ、と。

「……戻ったな」

「戻った」

ヴォルグの目は、鋭い。けれど、前作で、ひかりの前に下ろした剣と同じ温度だった。

「人間の世界に、何日いた」

「七日には、まだならない。けれど、十分、長かった」

ヴォルグは、ひかりの袖の下のほのおと、みずへびを一瞥した。一瞥のあと、言った。

「ねんきは、いない」

「いない。形を変えた。糸は、残っている」

ヴォルグは、長く黙った。黙ったあと、うなずいた。うなずきは、理解ではない。尊重に近い。

「村は、騒いでいる。境界が、裂けている。裂け目から、古い『食い』が、漏れている」

「食い?」

「境界を、飲み込むもの。昔、人間とモンスターが戦ったとき、封じ込めた。扉が開いた。開いた隙に、目を覚ました」

ひかりの胸の鐘が、激しく鳴った。鳴る方へ、歩けば、何かが変わる——いつもの羅針盤だ。

ヴォルグは、道を開けた。

「老婆が、お前を待っている。泉の手前だ。行け。俺は、狩人を集め、裂け目の周りを、囲む」

ひかりは、礼をした。礼は、言葉より、心の糸で送った。ヴォルグは、糸を受け取ったように、肩を一度だけ、下げた。

森の道は、前作で歩いた道と、同じだった。同じなのに、違う。違うのは、ねんきのぷるりという音が、草むらにないこと。ないのに、草の上の水たまりが、時々、光る。光は、名残りだ。

泉の手前の広場で、老婆が、灯籠を掲げて立っていた。顔は、前と同じく、ほとんど見えない。見えないのに、声は、はっきりした。

「遅かった、ひかり」

「人間の町で、手がかかった」

「知っている。泉は、見ていた」

老婆は、灯籠を、ひかりの手に渡した。渡した掌は、人間の手。温かい。前作でも、同じだった。

「裂け目は、二つある。人間の世界の恐れと、モンスターの世界の怒り。二つが、同じ穴を、広げている」

「塞ぐには?」

「塞ぐ、ではない。繕う。繕うには、岸の子が、両側に、糸を張る」

ひかりは、老婆の手を取った。

「おばあちゃんは、誰?」

老婆は、答えなかった。答えない代わりに、紙切れを一枚、ひかりに渡した。紙には、絵が描いてある。人間の子と、モンスターの王。泉で見た記憶と、同じ絵だ。

「お前の母は、人間の世界の長老の娘だった。長老は、恐れから、赤子を、泉の光に託した。託されたのが、お前だ」

ひかりは、紙を胸に押し当てた。怒りは、ない。あるのは、未完了の旅だけだ——泉でも、そう言われた。

「繕いに、行く」

老婆は、泉の方を指した。

「行け。ほのおと、みずへびだけでは、足りないかもしれない。足りないときは、空の糸を、信じろ」

ひかりは、うなずき、泉へ向かった。背中で、ヴォルグの足音が、狩人たちとともに、遠ざかっていく。遠ざかる先で、森が、ざわめいた。

ざわめきは、裂け目の音だった。

黒い、霧のようなものが、木の幹のあいだから、にじみ出ていた。にじみ出るたびに、葉が枯れ、露が消える。境界を食う者。

ひかりは、走った。走るのは、戦いに行くためではない。糸を張る場所へ、行くためだ。

ねんきの分まで、走る。


裂け目の手前で、ひかりは、立ち止まった。立ち止まった理由は、恐怖ではない。記憶だ。

前作のこの場所で、ねんきは、膜の盾になり、光の粒となって散った。散ったあと、番人は退き、ひかりは、人間の世界へ進んだ。進んだ道の、逆を、今、歩いている。

「ねんき。ここ、覚えてる?」

草の上の水たまりが、ぷるりと光った。答えは、言葉ではない。けれど、ひかりの肩に、一瞬だけ、昔の重さが、戻ったような気がした。重さは、悲しみではない。伴侶の記憶だ。

ヴォルグが、横から言った。

「走るな、と言ったはずだ」

「走らない。立って、糸を張る。——お願い、狩人たちを、後ろに下げて。下がったら、私が、責任を取る」

「責任を、子が取るのか」

「岸の子は、子でも、大人でもない。だから、取れる」

ヴォルグは、歯を食いしばり、手を上げた。狩人の列が、後退する。後退した空間に、老婆の灯籠の光が、入り込んだ。

「行け、ひかり。お前の鐘が、鳴っている」

胸の鐘は、確かに鳴っていた。鳴る先に、霧の「食い」と、人間の町で、レンが置いた境界石の欠片が、同時に、脈打っている。

二つの岸。一本の糸。ひかりは、息を整え、泉へ、足を踏み入れた。


第六章 境界の裂け目

裂け目は、泉のすぐそばに、口を開けていた。

口の縁は、牙のように、空間をかじっている。かじるたびに、人間の世界の鐘と、モンスターの世界の鐘が、不協和に鳴る。鳴る音のあいだに、古い戦場の記憶が、霧となって漏れる。剣。焦げた盾。骨。

ひかりは、骨の横に立った。前作でも、ここに花を置いた。今、花はない。代わりに、心の糸がある。

「食い」は、形を持たない。持たないから、剣は通らない。ヴォルグの狩人たちが、刃を振っても、霧は裂け、すぐに繋がる。

「止まれ!」

ヴォルグが叫んだ。叫びは、狩人への命令でも、霧への牽制でもない。ひかりが、泉の縁に近づきすぎた、という警告だった。

ひかりは、止まらなかった。止まれば、裂け目が、人間の世界まで、伸びる。サキが、また眠る。レンが、置いた境界石の欠片が、無力になる。

「ほのお、みずへび。戦わない。守るだけ」

ほのおむしは、炎の壁を、ひかりの周りに、円形に張った。みずへびちゃんは、泉の水を巻き上げ、壁の外側を、冷やした。冷やすのは、攻撃ではない。霧の動きを、遅くするためだ。

ひかりは、目を閉じ、両手を空に上げた。

糸を、裂け目の奥へ伸ばす。奥には、飢えがあった。境界を飲み込めば、古い戦いは、永遠に続く——飢えは、そう信じている。信じているものに、糸は通る。

「お前は、何が足りない?」

霧が、わずかに揺れた。揺れは、答えに近い。

ひかりは、さらに深く、読んだ。飢えの正体は、憎しみではない。終わらなかった物語への、渇きだった。戦いが終われば、誰も英雄になれない。誰も、被害者にもなれない。だから、境界を食い、物語を、延長しようとする。

「物語は、終わっていい」

ひかりは、泉の水面を見た。水面に、人間の町の映像が浮かぶ。レンが、石碑の写しの足元に、境界石の欠片を置いている。口ではない。心で、『通る』と、唱えている。

町側の糸と、森側の糸が、ひかりの胸で、結ばれた。

結ばれた瞬間、裂け目が、叫んだ。叫びは、風ではない。古い剣戟の音だ。

ヴォルグが、前に出た。

「ひかり、下がれ!」

「下がらない。下がったら、お前たちが、戦う。戦ったら、誰かが倒れる。倒れたら、もう二度と」

ヴォルグの剣が、空中で止まった。前作と、同じ瞬間だった。止まった剣の向こうで、狩人のリーダーは、唇を噛んだ。

「……お前は、狩人を、殺さないな」

「殺さない。心を、通わせる」

ひかりは、ヴォルグの「正義」に、糸を通した。正義は、村を守ること。守るとは、外れの子を、森で殺さないことでもある。殺さねば、境界が崩れる、と信じながら、剣を下ろした、あの日の正義だ。

「お前は、すでに、選んでいる。選んだなら、一緒に、糸を張って」

ヴォルグは、長い時間、黙った。黙ったあと、剣を地に突いた。突いた剣は、前作の誓いと、同じ形をした。

「狩人たち。刃を収めろ。ひかりに、任せる」

狩人たちが、列を下げる。下げた列のあいだを、老婆が、ゆっくりと歩いてきた。灯籠の光が、霧を照らす。照らされた霧は、わずかに、薄くなった。

老婆は、ひかりの肩に手を置いた。

「もう一本、糸を張れ。張る先は、お前自身の中の、怒りだ」

ひかりは、自分の中の、怒りを探した。人間と呼ばれた日。石を投げられた日。ねんきが、光の粒となって散った日。怒りは、あった。けれど、怒りの奥に、悲しみがあった。

悲しみに、糸を通す。

通した瞬間、裂け目が、震えた。震えは、収縮の始まりだった。

霧の中心に、番人の影が、一瞬だけ現れた。赤い角。赤い目。前作で、試練を終えた相手だ。番人は、何も言わなかった。言わなくても、角を一度だけ、下げた。下げたのは、合格の続きだ。

裂け目が、口を閉じていく。閉じる音は、重い。重い音のあと、泉が、清らかに光った。

ひかりは、膝をついた。力が、抜けた。抜けた身体を、老婆が支えた。

「よくやった、岸の子」

ヴォルグが、近づき、ひかりの頭上に、外套をかけた。外套は、狩人のもの。薬屋の匂いではない。革と、煙の匂いだ。

「人間の世界は、どうだった」

「怖かった。けれど、サキという子が、扉を、怖くなくした」

ヴォルグは、何か言いかけて、飲み込んだ。飲み込んだあと、短く言った。

「……お前が、戻ってきて、よかった」

それは、狩人にとって、最も長い文だったかもしれない。

夜、泉のそばで、ほのおとみずへびが、ひかりの左右に寄り添った。草の上の水たまりが、ぷるりと光った。ねんきの名残りだ。風が、その光を、ひかりの耳元まで運んだ。

声は、言葉ではなかった。それでも、ひかりは聞いた。

——つぎも、いっしょ。

境界の裂け目は、閉じた。閉じたのは、塞いだのではない。繕ったのだ。繕いは、終わりではない。手入れの始まりだ。


裂け目が閉じたあと、泉が、ひかりに、最後の映像を見せた。

人間の町の広場。レンが、境界石の欠片を置く。同時に、モンスターの世界の石碑の足元に、老婆が、新しい石を置く。二つの石が、脈打ち、鐘が、同音で鳴る。

映像の最後に、赤子のひかりが、草の上に落ちる場面が、一瞬だけ、重なった。落ちた先に、ねんきのような光が、あった。光は、ねんきではない。泉の光だ。けれど、ねんきの名残りと、同じ温度だった。

ひかりは、水面から手を引いた。

「泉。母は、まだ——」

泉は、答えなかった。答えない代わりに、水面に、小さな文字が浮かんだ。

**行け。行けば、会える。会えるのは、時が来てから。**

老婆が、ひかりの肩に、外套をかけた。外套は、狩人のものではない。老婆の、古い布だ。

「冷えている。狩人の詰所で、休め」

「休めない。人間の町に、三日しか、ない」

「なら、急げ。急ぐ子に、風は、味方する」

ヴォルグが、松明を掲げ、光の道の入口まで、送った。送ったところで、初めて、ひかりに向かって、短く言った。

「……お前の仲間を、失った夜、俺は、ここで、剣を抜かなかった。抜かなかったことを、今も、悔いていない」

「悔いなくていい。抜いたら、お前は、ねんきを、殺していた」

ヴォルグは、何も言わず、松明を、下げた。下げた光の中で、狩人の目が、ひかりを見た。見る目は、もう、敵意ではない。

光の道が、開く。開く先に、井戸の底と、レンの顔が、見えた。

ひかりは、ねんきの分まで、走った。走るのは、戦いではない。約束の、続きだ。


第七章 再会と誓い

七日目の朝、ひかりは、再び石碑の前に立っていた。

石碑の文字は、依然として**扉。** けれど、石の表面に、細い線が増えていた。線は、裂け目の跡だ。跡は、消えない。消えないから、見張らなければならない。

老婆は、泉から、新しい境界石を取り、ひかりの手に置いた。石は、前のものより小さく、両面に、文字が刻まれている。一面は、モンスターの言葉。一面は、人間の言葉。どちらも、同じ意味だった。

**通れ。そして、守れ。**

「これを、人間の世界の石碑の写しの足元にも、置くのだ。レンという子が、すでに欠片を置いた。欠片と、石が呼び合えば、糸は、太くなる」

ひかりは、石を、胸ポケットにしまった。

ヴォルグが、狩人十人を率いて、見送りの列を作った。列は、前作の追撃の形をしている。けれど、剣は鞘に入っている。

「また、人間の世界へ行くのか」

「サキに、会いに行く。会って、大丈夫だと、伝える。それから——」

ひかりは、森を見た。

「村の者にも、伝える。扉は、敵じゃない。通ることで、お互いを、守れる、と」

ヴォルグは、うなずいた。

「村の長老——俺たちの長老——は、頑固だ。けれど、お前が、ねんきを失っても、歩いたことを、俺は、伝える」

「伝えてくれて、ありがとう」

老婆が、最後の紙切れを、ひかりに渡した。紙には、文字だけが書いてある。

*両方の岸に、立て。立てば、橋になる。*

「おばあちゃんは、村に戻るの?」

「戻る。灯籠は、まだ、仕事が残っている」

老婆は、泉の光の中に、姿を消した。去り方が、老婆らしかった。ひかりは、問いを喉に残したまま、光の道へ踏み出した。

光の道を歩くあいだ、ひかりは、振り返らなかった。振り返ると、ねんきのいない森が、見えてしまうからだ。いないのではない。形を変えただけだ。

井戸の底から、人間の世界へ戻ると、夕暮れの石畳が、足元に広がった。レンが、井戸の傍らで、待っていた。サキは、レンの背中に隠れ、顔だけをのぞかせている。

「ひかり!」

「戻った」

サキが、駆け出した。駆け出して、ひかりの袖を掴み、みずへびちゃんに、にこりと笑った。

「水のへび、元気?」

「元気。サキも、元気そう」

サキの頬に、色が戻っている。戻った色は、桃ではなく、夕焼けに近い。生きている色だ。

レンは、境界石の欠片と、新しい石を、手のひらで、合わせた。合わせた瞬間、町の広場の方から、柔らかい光が、立ち上った。長老の封印の儀は、始まっていなかった。レンが、止めたのだ。

「長老は、まだ、反対している。けれど、サキが、広場で言った。『あのお姉ちゃんが、いないと、また眠る』って」

ひかりは、サキの頭を、軽く撫でた。

「眠らない。扉は、怖くない。通るためのもの、だから」

三人は、薬屋へ戻った。戻った店で、ひかりは、泉の水を、最後の一滴、サキに渡した。渡したあと、瓶は、空になった。空は、終わりではない。始まりだ。

夜、屋根裏で、レンが、小声で言った。

「ひかりは、これから、どうする」

「両方の岸に、立つ。人間の町にも、森にも、行ける。行けるから、裂け目が、開いたとき、すぐに、繕える」

「……寂しくなる」

ひかりは、笑った。笑いは、まだ不慣れだった。不慣れでも、伝わる。

「寂しくなったら、鐘の音を聞いて。胸の奥が、鳴ったら、私が、糸を張っている」

レンは、うなずいた。うなずいた先で、サキが、眠りについた。眠りは、もう病ではない。休息だ。

ひかりは、窓から、星を見上げた。星は、森で見たのと、同じ並びだった。同じ星の下で、ヴォルグが、剣を地に突き、老婆が、灯籠を掲げ、ほのおとみずへびが、待っている。

再会は、終わりではない。誓いの、続きだ。


薬屋に戻った夜、長老が、一人で、店の扉を叩いた。レンが、開ける。長老は、杖を、店の枠に立てかけ、座ることを求めなかった。

「岸の子。お前が、丘で、示した奇跡は、認める。認めるが、恐れは、消えない」

ひかりは、茶を淹れる手を止めた。

「消えなくていい。恐れと、並んで、歩く」

「並んで歩める者が、どれほどいる」

「サキが、いる。レンが、いる。今日、石を置いた男の子が、いる。一人増えれば、十分」

長老は、サキの寝顔を見た。

「……この子の母は、境界の病で、逝った。逝く前に、扉のむこうに、緑の光を見た、と言った。お前のほのおむしの、光に似ていた、と」

ひかりは、胸の鐘が、鳴るのを感じた。

「似ていたなら、繋がっている。繋がりは、災いじゃない」

長老は、杖を、持ち直した。

「封印の儀は、止めた。代わりに、見張りを置く。見張りは、お前を、追わない。裂け目を、追う」

「それで、いい」

長老が去ったあと、レンが、小声で言った。

「あの人、初めて、『止めた』と言った」

「止めた人間は、橋の材料になる」

サキが、布団から、手を伸ばした。

「お姉ちゃん、あした、森に行くの?」

「行く。行って、戻る。戻ったら、お散歩、しよう」

「石畳、こわい?」

「こわくない。サキが、いてくれるから」

ひかりは、サキの手を、握った。握った手の温度は、人間の世界の、生きている証拠だった。証拠は、森へ持っていける。持っていけば、ヴォルグたちの詰所の灯りも、少しだけ、暖かくなる。


エピローグ 橋になる岸

十日後、ひかりは、人間の町の広場に、立っていた。

立っていたのは、処刑台ではない。証明の台だ。サキが、レンの手を握り、隣にいる。長老は、白い杖を持ったまま、群衆の前に立っている。杖は、まだ、祈りの形をしている。けれど、尖りは、下向きだった。

「この子が、モンスター使いだと、皆は言う」

長老の声が、広場に響いた。

「けれど、老いぼれの私の目には、橋に見える。橋は、渡るものだ。渡れば、両岸が、つながる」

ひかりは、境界石を、石碑の写しの足元に置いた。モンスターの世界側の石碑にも、同じ石が、同日、老婆の手で置かれていた——後から、ヴォルグの手紙で、知った。

石は、温かく脈打ち、二つの世界の鐘が、同じ音で、一度だけ鳴った。

群衆の中から、石を投げた男の子が、前に出た。手には、何も持っていない。

「……ごめん」

ひかりは、うなずいた。うなずきは、許しではない。受け取りだ。

「ごめん、は、通れる言葉だよ」

男の子が、石畳の上に、小さな花を置いた。花は、森の端で摘んだものではない。町の花壇のものだ。それでも、供えられる。

その夜、ひかりは、薬屋の屋根裏で、古い布を膝に掛けながら、ねんきの糸を確かめた。糸は、まだ、空に残っている。触れると、ぷるり、という感触が、指先に返ってくる。

ほのおむしが、灯りのように光り、みずへびちゃんが、袖の下で、静かに眠る。眠りは、警戒ではない。信頼だ。

レンが、茶を入れてきた。茶は、人間の世界の苦い液体だった。苦いけれど、温かい。

「明日、学校へ行く。サキも、もう大丈夫」

「行ってらっしゃい」

「ひかりは?」

「私は、森へ戻る。裂け目の手入れが、まだ、要る。ヴォルグが、待っている」

レンは、茶碗を置き、真剣な顔になった。

「いつか、僕も、森の岸に、立てるかな」

「立てる。立てないのは、足がないからじゃない。怖いから、だけ」

「……怖い」

「怖いまま、一歩踏めば、岸の子になれる」

サキが、布団から、声を上げた。

「お姉ちゃん、また来て」

「来る。ねんきの分まで、来る」

サキは、満足そうに、目を閉じた。閉じた目のまぶたの下で、草むらの光が、一瞬だけ見える——もう、恐れではない。

ひかりは、井戸の傍らへ歩いた。光の道が、開く。開く道の向こうで、森が、静かに呼吸している。

断絶の森は、もう、断絶だけの森ではない。扉の森だ。扉のむこうと、こちらを、行き来できる者がいる——それが、ひかりの、新しい役目だった。

前作で、ひかりは、ねんきを失い、人間の世界へ、扉を開けた。続編では、偏見の町で、眠る妹に手を差し伸べ、境界の裂け目を繕い、ヴォルグと老婆と再会し、橋になる岸として、歩き始めた。

物語は、次の扉へ進む。進む先に、読者のあなたがいるなら、胸の奥が、少しだけ鳴るかもしれない。鳴ったなら、それは、ひかりと同じ鐘の音だ。

—— 断絶の森・扉のむこうより

*前作『断絶の森 ― ひかりと境界の約束』を読んだ方へ:ねんきスライムは、戻りません。戻らないからこそ、ひかりの歩みは、軽くありません。軽くない歩みを、これからも、共に。*


光の道を抜け、森に戻ったひかりを、老婆が、泉の傍らで待っていた。

「人間の町は、どうだった」

「怖かった。暖かかった。両方、本当だった」

老婆は、灯籠を、ひかりの手に渡した。

「この灯籠は、もう、お前のものだ。暗い岸で、道を照らせ」

「おばあちゃんは?」

「私は、消える。消えるのは、終わりじゃない。役目が、終わった、だけ」

ひかりは、老婆の手を、握った。握った掌は、人間の手。温かい。

「母に、会える?」

「会える。会う場所は、泉じゃない。お前が、橋になった先だ」

老婆は、笑った。笑いは、初めて、はっきり見えた。見えた瞬間、姿が、泉の光に溶けた。

ヴォルグが、近づき、短く言った。

「……老婆が、お前を、選んだな」

「選ばれたのは、怖い」

「怖いなら、俺が、隣を歩く。狩りじゃない。見張りだ」

ひかりは、うなずいた。うなずいた先で、草むらが、風に揺れ、水たまりが、ぷるりと光った。

ねんきの分まで、歩く。

それが、扉のむこうと、こちらを、つなぐ、七日目のあとに決まった、ひかりの歩き方だった。