← テスト一覧

断絶の森 ― ひかりと境界の約束

約 18,856 字 · Kindle 原稿プレビュー

断絶の森 ― ひかりと境界の約束

著者:(ペンネームを記入)

プロローグ 二つの世界

むかし、人間の世界とモンスターの世界は、はるか昔から断絶されていた。

空の色が違う。土の匂いが違う。言葉の端々に、少しだけ響きが違う。人間はモンスターを恐れ、モンスターは人間を忌み嫌った。境界には森が生え、石碑に「人間は入るな」と刻まれた。逆に、人間の側にも似た石碑が立ち、「モンスターの世界へ渡るな」と書かれていたという。

ところが、ある夜、赤子の人間が、なぜかモンスターの世界に生まれ落ちた。

誰も知らない。どこから来たのか、誰の子なのか。ただ、泣き声だけが、草の上に残った。村の長老は顔を背け、狩人たちは剣を抜きかけた。結局、子は村の外れに置かれた。養わない。殺さない。見捨てるだけ。

人間がいるなど、ゆるされぬこの世界で、子「ひかり」は、ひけつを受け続けた。

けれど、ひかりだけが持つ力があった。心を通わせ、モンスターを仲間にできる力。触れ合うのではなく、恐れと願いのあいだに、細い糸を張るような力。

この世界には、もう一つ掟がある。仲間が倒れたら、もう二度と復活しない。魂は散り、名前だけが風に残る。

この物語は、岸の子ひかりが、境界の森に足を踏み入れてから三日間の記録である。三日のあいだ、彼女は、ねんきスライムと出会い、ほのおむしと心を通わせ、みずへびを救い、泉の記憶を見て、番人の試練を受け、一人の仲間を失い、人間の世界へ、扉を開けた。

読者のあなたが、ゲーム『断絶の森』をプレイしたことがあるなら、馴染みの名前が出てくるだろう。プレイしていなくても、問題ない。必要なことは、すべて、この紙の上で語られる。

人間とモンスター。断絶と、扉。恐れと、心。そして、二度と戻らない、という約束。

約束は、残酷だ。残酷だからこそ、守る価値がある。ひかりは、そう信じるようになった。信じるまでに、十二年かかった。

さあ。歩きだそう。草むらが、風に揺れる。揺れる先に、石碑が立っている。石碑の文字は、古い。けれど、古いものは、書き換えられる。書き換えられることを、ひかりは、まだ知らない。

知らないまま、一歩、踏み出す。それでいい。知識より先に、足がある。足がある者だけが、岸を、橋に変えられるからだ。


第一章 外れの小屋

ひかりが目を覚ましたのは、朝霧がまだ森の足元に残っている時間だった。

小屋は村から見えない場所にあった。屋根は苔むした板皮、壁は古い石と枝の組み合わせ。村の子どもたちは、ここまで来ない。来ると、親に叱られるからだ。「人間の子に触れるな」と教えられるからだ。

ひかりは十二になった。モンスターの世界の暦では、もう一人前に近い。それでも、ひかりの背は人間の子より小さく、髪の色だけが、周りの誰とも違った。栗色に近い黒。森の影のような色だ。

朝食は、昨夜残したきのこスープと、硬い木の実だった。村の端の老婆だけが、月に一度、袋に入れた食べ物を置いていく。老婆は顔を見せない。置いて、去る。ひかりは感謝の言葉を、老婆の背中に向けて唱える。返事はない。それでも、生きている。

「今日も、森の縁まで行く」

ひかりは独り言を言った。行く理由は、薪を拾うためでも、水を汲むためでもない。境界の石碑が、毎日少しずつ言葉を変えているように感じるからだ。昨日は「入るな」だった。今朝は「入るな、けれど」で終わっていた気がした。

石碑までの道は、踏み固められた獣の道と、人間が作ったとは思えない石段が混ざっている。草むらには、ねんきスライムがよくいる。半透明の体、ゆっくりした動き。村の者は「害のないゴミ」と呼ぶ。ひかりは、害がないとは思わない。害がないのではなく、争わないだけだと、知っている。

石碑は、森の入り口に立っていた。高さはひかりの倍。表面は風雨で削れ、文字の溝に苔が入っている。

**人間は入るな。**

その下に、新しいような擦れ方をした文字があった。

**けれど、戻るべき子がいるなら。**

ひかりは石碑に手を伸ばした。触れた瞬間、指先が冷たくなり、胸の奥で何かが鳴った。鐘ではない。心臓の音に似ているが、少し遅れて響く音。

「……誰の?」

声に答えたのは、草むらの中からだった。ねんきスライムが、ぷるりと顔を出す。いつもなら逃げる。今日は、逃げない。

ひかりは膝をつき、目線を合わせた。話しかけない。言葉は、届かないことが多い。代わりに、ひかりは呼吸を整え、相手の恐れを想像する。狩られないか。踏まれないか。それとも、ひかり自身が、人間だから危ないのか。

恐れの奥に、小さな好奇心があった。

ひかりは、その好奇心に手を伸ばすように、意識を寄せた。糸は見えない。触れない。けれど、張れた。

スライムの体が、ほんの少し明るくなった。

「……きみも、石碑が気になるの」

スライムは答えない。それでも、ひかりの右肩に、ぷと乗った。仲間にはならない。まだ早い。けれど、隣を歩く許可はもらったような気がした。

ひかりは村へ戻らず、石碑の前で座った。森の奥は、暗い緑の帳のようだった。入るなと言われている。入るな、けれど、と言いかけている。

夕方、老婆の袋には、通常より多いパンが入っていた。紙切れに、震えた字で一行だけ。

**森に入るな。今度は、私が頼む。**

ひかりは紙を折り、胸ポケットにしまった。入るな、と頼む人がいる。入るべき子がいる、と石碑が言う。

どちらが、本当の親なのだろう。


その夜、ひかりは小屋の床で、古い布を膝に掛けながら、村のことを思い出した。

七つのとき、初めて「人間」と呼ばれた。それまでは、外れの子、森のゴミ、と呼ばれていた。人間という言葉は、汚いものの名前のようだった。同い年の子が、石を投げた。石は当たらなかった。当たったら、どうなっていたか、ひかりは知らない。モンスターの世界では、人間の血は、境界を弱めると言われているからだ。

十のとき、老婆の袋を、誰かが踏み潰した。中身は、地面に散らばった。ひかりは、拾わずに立っていた。拾うと、また笑われる。老婆だけが、翌日、同じ量の食べ物を置いた。謝らなかった。ひかりも、謝らなかった。二人のあいだには、謝罪よりも、続けることの方が似合っていた。

十二の今、ひかりは、村の祭りの音を遠くで聞く。太鼓と、歌。参加しない。参加できない。けれど、音だけは届く。音は、境界を越える。音のように、自分も越えられるのではないか、と思うようになったのは、ここ半年のことだ。

胸の鐘は、子どものころから鳴る。誰にも聞こえない。ひかりだけが聞く。最初は、怖かった。今は、羅針盤のようなものだ。鳴る方へ行けば、何かが変わる。変わることが、いつも良いとは限らない。それでも、止まるよりましだ。

外れの小屋の窓から、境界の森が見える。暗い緑の帳。明日、もう一歩、踏み入れるかもしれない。ねんきは、今日、肩に乗ってくれた。名前を付けた。付けた瞬間、胸が痛んだ。別れの予感。それでも、付けた。名前は、存在の証だから。

ひかりは、布を胸に押し当て、目を閉じた。

「……ねんき。明日、一緒に行こう」

風が、草を揺らした。風の中に、ぷるり、という震えが混ざった気がした。答えは、風任せにした。答えを急ぐ者だけが、森で迷う、と老婆は言っていた。老婆は、まだ顔を見せない。けれど、袋は、いつも正確なタイミングで置かれる。

眠りに落ちる直前、ひかりは、もう一つ思い出した。ゲームではない。本当の話。赤子のとき、自分を森の縁に置いたのは、誰かの手だった。人間の手の形をしていた。モンスターの爪の形をしていた。どちらでもない、第三の形をしていた。

その手は、泉の光の中にだけ、残っている気がした。

「見つけに行く」

ひかりは、夢の手前で、そう呟いた。


第二章 境界の森

三日目の朝、ひかりは石碑を越えた。

越えたというより、一歩、森の影に足を入れただけだ。世界の音が変わった。鳥の鳴き方が低くなり、葉の擦れる音が近くなる。空は同じ青なのに、少しだけ深い。

肩に乗ったねんきスライムは、いつの間にか外れ、草の上で待っていた。ひかりが振り返ると、ぷるりと跳ね、再び肩に戻る。逃げなかった。ついてきた。

「名前、ないね」

ひかりは、スライムに向けてつぶやいた。村の子どもは、モンスターに名前を付けない。付けると、別れが痛くなるからだ。ひかりは、別れが痛いことを、すでに知っている。

「じゃあ、ねんき、でいい?」

スライム——ねんきは、答えない。けれど、体の中心が、温かい光の粒のように明滅した。嫌ではない、という合図だ。

森の入り口から百歩ほど進んだところで、初めて野生のモンスターに出会った。ほのおむし。小さな翅を持ち、腹の赤い光が、まぶしく脈打っている。

ねんきが、びくりと縮んだ。ほのおむしは、威嚇のように光を強め、草木に焦げた跡を残す。

「たたかわない」

ひかりは声を出した。狩人の真似をした。低く、はっきりと。ほのおむしは止まらない。炎は、恐怖から生まれることが多い。

ひかりは、剣を持たない。代わりに、両手を空に上げ、目を閉じた。相手の炎の奥にある、孤独を読む。群れからはぐれたのか。領域を侵されたのか。それとも、石碑の変化に、森全体がざわついているのか。

心の糸を張る。今度は、一本ではない。二本、三本。絡まないように、ゆっくり。

ほのおむしの光が、ちぎれるように点滅し、弱まった。

「……こわいの、わかる」

ひかりが言うと、炎は小さくなった。勝ち負けではない。鎮めるのでもない。並んで、息をする。

ほのおむしは、地面に降り、翅をたたんだ。ねんきが、そっと近づく。敵ではなく、なりそうな何かを、モンスター同士が確かめ合っている。

ひかりは、指先をほのおむしの前に置いた。熱い。それでも、触れた。心の糸が、きゅっと結ばれた瞬間、胸の奥の遅れた鐘が、もう一度鳴った。

仲間になった、という感覚は、言葉より早い。名前は、相手が決めるものだと、ひかりは思っていた。けれど、ほのおむしは、小さな火花を散らし、空中に文字を描いたように見えた。

**ほのお。**

「ほのおむし、なの?」

翅が、はい、と言うように一度震えた。

そのとき、森の奥から、足音がした。人間の靴ではない。重い金属と革の音。村の狩人が、三人。剣を抜き、ひかりを見つけた。

「人間の子め。入るなと言ったはずだ」

リーダー格の男——ヴォルグと、村では呼ばれている——が吐き捨てた。ひかりは振り向かない。背中に、ねんきとほのおがいる。逃げると、仲間が後ろから撃たれる。戦うと、掟に従わない者になる。

「石碑が、変わった」

ひかりは、それだけ言った。

「石碑など、古い石だ。お前が森に入ったから、森が乱れたのだ」

ヴォルグの剣先が、ほのおに向く。ひかりは、意識を剣ではなく、ヴォルグの瞳に向けた。狩人は、人間を殺す訓練はある。モンスターを、仲間のように見る訓練はない。

「お前は、戻れ。お前がいる限り、この村は災いを招く」

「戻る場所が、ない」

ひかりの声は、風に負けなかった。ヴォルグは唇を噛み、剣を下ろした。殺さない。村の掟では、外れの子を森で殺すと、境界が崩れると信じられているからだ。

「三日だけだ。三日過ぎたら、お前を森から引きずり出す」

狩人たちが去ったあと、森は静かになった。ほのおが、ひかりの袖を、炎のない熱で軽く炙った。ねんきが、ぷるりと震えた。まだ、歩きはじめたばかりだ。

夜、ひかりは森の中で火を焚かなかった。ほのおが、小さな灯りになった。ねんきが、周りの露を集め、飲み水に変えた。モンスターの世界では、こういう夜も、珍しくない。

ひかりは、空を見上げた。星は、人間の世界の絵本で見たものと、同じ並びに見えた。

「……あっちにも、空はあるのかな」

誰も答えない。けれど、胸の鐘が、遠くで、かすかに反響した。戻るべき、という音だった。


二日目、ひかりは森の中を、さらに奥へ進んだ。

道は、獣の道と、人の足ではない何かの道が重なっている。木の幹に、古い傷。爪の跡。番人の子供時代の跡かもしれない。ひかりは、傷を撫でた。木は、痛みを覚えていない。けれど、記録は残る。

昼過ぎ、小さな広場に出た。そこには、倒れた石碑の破片が、苔に埋もれていた。読める部分だけを、ひかりは掃いた。

**こころを通わせる者よ、争うな。**

この森では、モンスターと争うより、心を通わせる方が、生き延びやすい。ひかりは、それを体で知っていた。たたかう選択肢は、いつもある。けれど、たたかうたびに、誰かが倒れる。倒れたら、もう二度と。

ほのおが、破片の上で、小さく光った。ねんきが、破片の溝に水を流し、文字を浮かび上がらせる。文字は、古いが、はっきりしている。

**なかまが倒れたら、もう二度と復活しない。**

これは、神の掟ではない。人間とモンスターが、恐れから作った、いちばん残酷な約束だ。復活の魔法を、どちらの世界も、秘密裏に研究した。失敗した。失敗の代償として、この掟が、森全体に行き渡った。

「……知ってる。でも、守る」

ひかりは、破片の前で、うなずいた。守るとは、逃げることではない。大切な者を、無理に戦わせないことだ。

夕方、霧が降りた。霧の中から、みずへびの姿が、かすかに見えた。まだ、仲間ではない。傷ついている。ひかりは、昨日のように、心の糸を張る準備をした。今日は、一本では足りないかもしれない。

霧が晴れたとき、みずへびは、川岸に横たわっていた。第三章へ続く、と森は言っているようだった。

夜、ヴォルグの三日目という言葉が、頭から離れない。あと一日。一日で、泉に辿り着けるか。老婆の灯籠は、まだ持っていない。道しるべは、胸の鐘と、仲間だけだ。

ほのおが、ひかりの手の甲に、小さな丸い焼け跡を残した。痛くない。印のようなものだ。

「……ありがとう。灯になってくれて」

翅が震え、ねんきが、ぷるりと応えた。森の奥で、何かが、また一歩、近づいている。


第二章補 こころのたたかい

森に入ってから、最初の「たたかい」は、ほのおむしとの遭遇のあと、すぐに訪れた。

草むらが、ざわめく。二匹の野生モンスター——ほのおむしとは別の個体——が、互いに縄張りを争っていた。片方は、腹の赤い光。もう片方は、細い体のみずへび。どちらも、ひかりたちの進路を塞ぐ。

「にげる?」

ひかりは、自分に問いかけた。にげれば、無傷かもしれない。にげれば、泉への時間が、足りなくなるかもしれない。

ねんきが、前に出た。小さな体で、膜の盾を張る。ほのおが、右から炎の壁。みずへびは、まだ仲間ではない。川の方角から、水の矢を放ち、争いを止めようとしている。

「たたかう、じゃない」

ひかりは、両手を上げ、目を閉じた。

心のたたかい——村の狩人たちは、そう呼ぶ。剣を抜かず、魔法を唱えず、相手の感情の奥に、糸を通す技法。ひかりは、誰にも教わっていない。赤子のときから、胸の鐘と一緒に、身体に刻まれていた。

炎の奥の孤独。水の奥の焦燥。二匹は、争っているように見えて、実は、同じことを恐れていた。境界の石碑が、書き換わったこと。森が、乱れること。乱れた森では、弱い個体が、いちばん先に消える。

ひかりは、二本の糸を、同時に張った。糸が交差しないよう、呼吸を合わせる。吸う。吐く。吸う。吐く。

炎が、弱まる。水が、止まる。

二匹のモンスターが、同時に、ひかりの方を見た。敵意ではない。確認だ。

「……ここは、あなたたちの縄張り。通していい?」

炎が、小さく点滅した。水が、道を開ける。

ひかりは、礼を言った。礼は、言葉では通じない。だから、心の糸で、感謝だけを送った。送った瞬間、胸の鐘が、短く鳴った。良い音だ。

通過したあと、ねんきが、肩に戻り、ぷるりと震えた。ほのおが、翅で、ひかりの頬を撫でた。焼け跡は、もう痛くない。

「……こころ、って、弱そうで、強いね」

ひかりは、つぶやいた。

弱そうに見えるのは、剣を持たないからだ。強いのは、倒れた仲間を、無理に戦わせないからだ。掟は、残酷だ。残酷な掟を、守りながら前に進むには、たたかう以外の道を、いちばん深く歩く必要がある。

夕方、狩人ヴォルグの「三日」という言葉を、思い出す。あと、二日。二日で、泉へ。一日で、選択へ。

森の木々が、風に揺れる。揺れは、応援のようにも、警告のようにも聞こえた。ひかりは、どちらでもいい、と答えた。応援でも警告でも、前へ進む理由になるからだ。

夜、星が、同じ並びで瞬いた。人間の世界の絵本で見た星と、同じだと、ひかりは確信した。同じ星なら、同じ空の下に、同じ種類の親がいるのかもしれない。いないのかもしれない。いるかどうかは、泉が知っている。

ねんきが、眠りながら、体を脈打たせた。夢を見ているのかもしれない。ひかりは、ねんきの夢に、少しだけ触れようとした。触れない。触れてはいけない、と、直感が言った。仲間の夢は、境界線の内側にある。

「……おやすみ」

ひかりは、そう言って、目を閉じた。閉じた暗闇の中で、鐘だけが、遠くで鳴り続けた。


第三章 みずへびの涙

森の奥は、水の音が多かった。

川は、境界線のように流れ、向こう岸の草は、こちらより濃い緑をしていた。浅瀬に、みずへびちゃん——長い体に、透明に近い鱗——が横たわっていた。尾を傷つけ、動けない。周りには、野犬ではない何かの足跡。争いの跡。

「手当、する」

ひかりは、膝を濡らして近づいた。ほのおが、温かい光で傷口の周りを照らす。ねんきが、体から薄い膜を張り、水を清める。みずへびは、びくびくと震え、牙を見せた。

「怖がらなくていい。痛いの、わかる」

心の糸は、いつもより細く張る必要があった。水のモンスターは、感情が流れやすい。悲しみが、恐怖が、川と一緒に流れてくる。

ひかりは、自分の記憶の端を、さらっと触れた。村の子どもたちに、石を投げられた日。老婆の袋を、誰かが踏み潰した日。痛みは、消えない。けれど、痛みを知っている者だけが、他者の痛みに触れられる。

みずへびの震えが、止まった。

「……みずへびちゃん、でいい?」

尾が、小さく振れた。仲間の輪は、三つになった。ひかりの肩にねんき、左腕にほのお、右腕にみずへび——重いが、不思議と歩調は乱れない。

その夜、川岸で、古い看板を見つけた。木は腐れ、字は半分消えている。

**断絶は、罪ではなく、盾だ。**

ひかりは、看板の下に座り、文字をなぞった。盾。誰を守る盾なのか。人間を、モンスターを、それとも、境界そのものを。

「ひかり」

声がした。振り返ると、老婆が立っていた。村の端の老婆。初めて、正面から顔を合わせた。皺の深い顔、人間の目——いや、モンスターの世界に長く住んだ者の目。

「入るな、と言ったのに」

「石碑が、言ったから」

老婆は、ため息をついた。杖の先に、小さな灯籠が揺れる。

「お前は、人間の子だ。ここにいるべきではない。けれど、ここにいる。それが、森を乱すのだ」

「乱しているのは、私?」

「乱しているのは、断絶そのものが、古くなったことだ」

老婆は、川を指した。

「向こう岸は、人間の世界に近い。こちら岸は、モンスターの世界。お前は、岸に生まれた。岸の子は、どちらにも属さない。だから、心を通わせられる。断絶の隙間に、生まれた子は」

ひかりは、胸の鐘の音を思い出した。

「戻るべき、というのは……」

「人間の世界かもしれない。モンスターの世界かもしれない。お前が決めるのだ。けれど、決める前に、知らねばならぬ。断絶は、なぜ起きたか」

老婆は、袋から古い紙切れを取り出した。絵が描いてある。人間の子と、モンスターの王。手を繋いでいる。周りの者たちは、怒りの顔。

「昔、交わりがあった。子が生まれた。両方の世界が恐れた。恐れは、境界を作り、石碑を立てた。お前のような子が、二度と生まれないように」

「でも、私は生まれた」

「そう。だから、森は石碑を書き換えた。だから、狩人はお前を追う。だから、私は——」

老婆の声が、途切れた。森の奥から、低い唸りが響く。地面が、わずかに震える。

みずへびが、急に体を起こした。傷は、まだ完全ではない。けれど、敵の気配を察知している。

木々のあいだから、黒い影が出た。岩のように大きい体、角、赤い目。森の番人——村の伝承では、境界を守る獣と呼ばれるもの。

「ヴォルグが呼んだのか」

老婆が呟いた。番人は、言葉を話さない。剣を持たない。ただ、存在するだけで、境界を圧する。

ほのおが、前に出た。ねんきが、ひかりの前に広がった。みずへびが、川から水を巻き上げ、壁を作る。

「たたかうと、死ぬ。誰かが」

ひかりは、仲間を見た。掟を、思い出した。倒れたら、もう二度と。

「退く。でも、逃げない」

ひかりは、番人の赤い目に、意識を向けた。怒りではない。義務。境界を侵した者を、押し返す義務。

心の糸を、今まででいちばん太く張った。相手の恐れではない。孤独でもない。責務。

「私たちは、越えるために来た。壊すために、じゃない」

番人の目が、わずかに揺れた。次の瞬間、黒い影は、森の暗がりに溶けた。追わない。まだ、時ではないのだろう。

老婆は、ひかりの手を取った。人間の手。温かい。

「三日のうちに、奥の泉へ行きなさい。泉には、断絶の記憶が残っている。見た者だけが、選べる」

「老婆さんは?」

「私は、村に戻る。お前を殺さないよう、狩人を止める。お前は、泉へ」

老婆は、灯籠をひかりに渡し、姿を消した。去り方が、老婆らしくなかった。ひかりは、問いを喉に残したまま、泉の方へ歩き出した。


泉へ向かう道のりで、ひかりは、森の声を聞いた。

声は、言葉ではない。葉の擦れ、水の音、根のきしみ。それらが、まとまって、意味になる。森は言う。——お前は、岸に生まれた。岸は、流れる。流れを止めようとする者が、石碑を立てた。

ひかりは、答えなかった。答えは、泉にある。老婆も、そう言った。

途中、古い戦場の跡があった。錆びた剣、焦げた盾、モンスターの骨。人間とモンスターが、本当に戦った時代の名残だ。ひかりは、骨の横に、小さな花を置いた。どちらの側の骨か、わからない。わからないから、供えられる。

みずへびが、ひかりの腕に巻きつき、水を振って、花に露を落とした。ほのおが、灯籠の代わりに、花を照らす。ねんきが、土を柔らかくし、花が倒れないようにした。四人——いや、三人と一人間——の連携は、言葉より早かった。

「……戦場で、花を供えるなんて、変だね」

ひかりは、独り言を言った。変でいい。変でなければ、岸に立てない。

夜が明ける前に、番人の影が、もう一度、遠くを通った。追ってこない。見張っている。試している。ひかりは、影に向かって、小さく会釈した。影は、角を一度だけ、下げたように見えた。

灯籠の火が、ゆらめく。老婆の声が、灯の中から漏れた気がする。

「お前の母は、人間でもモンスターでもない。岸の守り手だった。守り手は、子を泉に託し、消えた。消えたのは、死ではない。境界の外に、封じられたのだ」

「……母が、いるの?」

灯は、答えなかった。けれど、鐘が鳴った。進むべき、という音。

ひかりは、歩速を上げた。泉は、もう近い。空が、水面の光で、薄く明るくなっている。


第三章補 番人の試練

老婆が去ったあと、番人は、二度目の試練を仕掛けてきた。

今度は、逃げ道がない。崖と川に挟まれた細い道。番人の体は、夜の色を吸い込むほど黒い。角は、月の光を反射しない。

「……通さないの」

ひかりは、剣を持たないまま、正面に立った。ほのおが、前足に出る。みずへびが、後ろで水をためる。ねんきが——まだ生きているねんきが——、ひかりの足元を、膜で固める。滑らない。逃げない。倒れない。

番人は、突進した。

最初の一撃は、角による切り裂き。ねんきの膜が、音を立てて裂ける。裂けた膜は、すぐに再生する。再生は、ねんきの生命力を削る。ひかりは、それを知っている。

「たたかう、じゃない!」

ひかりは叫んだ。叫びは、番人を止めない。二撃目が、ほのおの翅を掠める。翅から、火花が散る。ほのおは、痛みより、ひかりの安全を優先し、炎の壁を厚くした。

三撃目。

ひかりは、目を閉じ、番人の「義務」に、糸を通した。境界を守る。侵す者を、押し返す。押し返さねば、森が、人間の世界に飲み込まれる。飲み込まれると、モンスターが、虐げられる——古い記憶が、番人の角に刻まれている。

「私たちは、壊しに来たんじゃない。古くなった断絶を、直しに来た」

番人の足が、止まった。

四撃目は、来なかった。代わりに、番人の赤い目が、ひかりを見た。長い時間。時間のあいだ、森全体が息を止めているようだった。

そして、番人は、横道を、体で示した。通せ、という意味だ。

ひかりは、深く礼をした。礼をした瞬間、番人の角が、小さく光った。光は、敵意ではない。合格の印だ。

道を進むと、川岸に、古い看板の破片が、もう一枚あった。

**試練は、力ではなく、選びだ。**

「……選ぶ、か」

ひかりは、看板の文字を、指でなぞった。指先が、冷たい。冷たさは、泉が近い証拠だ。

みずへびが、尾で、ひかりの足首を、軽く巻いた。引くのではない。支えるのだ。

「ありがとう。みずへびちゃん」

尾が、二度、振れた。仲間の数は、三。人間は、一人。それでも、岸の子は、一人ではない。

夜明け前、森の奥から、鐘の音が、重なって鳴った。進むべき。進むべき。進むべき。

ひかりは、歩数を、半歩だけ速めた。


第四章 泉の記憶

泉は、森のいちばん深い場所にあった。

光は、水面から立ち上がる。周囲の木は、根を泉に伸ばし、葉の裏に、古い文字が浮かぶ。文字は、読めるときと読めないときがある。

ひかりは、泉の縁に膝をついた。ねんきは水に触れ、ほのおは灯籠の代わりに光を落とし、みずへびは、水面を静かに撫でた。

「記憶、を」

ひかりが囁くと、泉が応えた。水の中に、映像が浮かぶ。昔の交わり。人間の子とモンスターの王。老婆の紙切れと同じ絵が、動き出す。

王は、言葉を話す。

「この子は、どちらでもない。だから、どちらでもある。断絶など、子どもには不要だ」

人間の側の長老が叫ぶ。

「不要なのは、我々の恐れだ。恐れを認めぬまま、子を殺すのか」

モンスターの側の長老が答える。

「殺さない。離せ。境界を作れ。忘れさせろ」

境界が引かれる。森が生える。石碑が立つ。子は、人間の世界に渡され——いや、渡せなかった。途中で、光に包まれ、消えた。

映像が、つながる。別の夜。赤子のひかりが、草の上に落ちる。光の束は、泉から出たものだった。

「私は……泉から?」

胸の鐘が、激しく鳴った。答えは、水の中にあった。岸の子は、断絶の隙間から生まれる。泉は、隙間の入口でもある。

ひかりが、水面に指を入れた瞬間、泉は冷たくなり、記憶は止まらなかった。未来の断片——見間違いかもしれない——が、走馬灯のように流れる。

狩人ヴォルグが、剣を折る。老婆が、村の前で叫ぶ。番人が、倒れる。仲間のねんきが——

「やめて」

ひかりは、目を閉じ、水から手を引いた。未来は、まだ来ていない。来るとしても、選び直せる。

そのとき、足音がした。人間の靴だった。

振り返ると、少年が立っていた。年齢は、ひかりと同じくらい。服装は、人間の世界のもの。腰に、小さな袋。目の色は、ひかりと似ている。

「……君も、岸の子?」

少年は、首を横に振った。

「僕は、人間の世界から来た。石碑の向こうが、変わったから、調べに来た。君が、噂の人間の子だね」

「名前は?」

「レン。境界の見張りじゃない。ただの、好奇心だ」

レンは、泉を見て、ため息をついた。

「うちの世界でも、石碑が『渡るな、けれど』って書き換わった。お互いの世界が、同時に困ってるってことか」

ひかりは、レンを見た。敵意はない。恐怖も、薄い。同じ空の星を、見上げたことがあるような気がした。

「泉は、選ばせる。戻るか、留まるか、境界を越えるか」

「三つ目は、死ぬ人多そう」

「仲間が倒れたら、もう二度と戻らない、という掟がある」

レンは、沉默した。それから、小さく言った。

「僕の妹が、病気で。人間の世界の薬が、効かない。モンスターの世界の泉の水が、効くかもしれない、って古い記録がある。だから来た」

ひかりは、みずへびを見た。みずへびは、泉の水を集め、小瓶に——瓶など持っていないのに、ねんきの膜で包んだ。

「持っていけ。ただし、境界を越えるのは、私たちだけじゃない」

レンは、驚いた顔をした。

「君も、越えるの?」

「越えるかもしれない。越えないかもしれない。でも、断絶が古くなったなら、誰かが最初に、歩く」

泉の光が、弱まった。夜が、森に降りる。レンは、人間の世界へ戻る道を聞いた。ひかりは、老婆の灯籠を掲げ、道を示した。

別れのとき、レンが言った。

「もし越えるなら、僕の世界で、君を待つ。妹に、水を渡したあと」

ひかりは、頷いた。約束は、軽いものではない。けれど、岸の子にとって、約束は岸のようなものだ。

三人の仲間と、ひかりは、泉のそばで眠った。夢の中で、ねんきが消える映像は、もう一度だけ訪れた。目覚めたとき、ねんきは、肩で寝息を立てていた。夢は、未来の断片の一つ。選び直せる、とひかりは思った。


泉の記憶は、一度では終わらなかった。

ひかりが再び水面に触れると、今度は、人間の世界の映像が浮かんだ。石畳の町。薬屋。ベッドで、小さな女の子——レンの妹——が、浅い呼吸をしている。

レンの声。

「……兄ちゃん、森の向こう、本当に行くの?」

「行く。行かなきゃ、お前が」

「帰ってきてね」

映像は、切れた。切れたあと、ひかりの頬に、自分でも気づかぬうちに、涙があった。他人の妹のことが、わかるのは、自分にも、戻るべき場所があるのかもしれない、と思ったからだ。

泉は、続けた。守り手の母の記憶。人間の顔。モンスターの角。どちらでもない、第三の形。母は、両方の長老に言った。

「この子が大人になったとき、断絶は古くなる。古くなったものを、盾のままにしておくと、盾は、壁になる。壁は、牢になる」

長老たちは、恐れた。恐れは、境界を作った。母は、子——赤子のひかり——を、泉の光に託し、境界の外へ追いやられた。追いやられたのは、罰ではない。封印。封印が、今、ゆるんでいる。

「……母さん」

ひかりは、水面に顔を近づけた。水面は、母の形を映さなかった。映すのは、記憶だけだ。

「私は、怒ってない。行ってきて」

声は、泉の底からした。ひかりは、うなずいた。怒りは、ない。あるのは、未完了の旅だけだ。

レンが、翌朝、再び現れたのは、ひかりが泉から離れようとしたときだった。

「瓶、受け取ってくれて、ありがとう。妹は、少し呼吸が楽になった」

「それなら、良かった」

「僕の世界では、お前の噂が、もう広がってる。『森の子』って呼ばれてる。怖がる人もいる。助けを求める人もいる」

「怖がられても、いい。助けられたら、困る」

レンは、笑った。困る、という言葉の意味を、すぐには理解していない顔だった。ひかりは、補足しなかった。岸の子は、一人で背負いすぎる癖がある。それでも、仲間がいる。ねんきと、ほのおと、みずへびが、ひかりの影に寄り添っている。

「明日、越えるかもしれない」

「なら、こっちで、石碑の前で待つ。人間の世界の、入り口」

二人は、手を振り合った。手の形は、同じだった。人間の手。それだけが、今は、いちばん頼もしかった。

泉の光が、最後に一度、強くなり、森全体に波紋を送った。波紋は、境界の石碑まで届く。届いた先で、文字が書き換わる——まだ、ひかりは見えない。けれど、鐘が、確かに鳴った。

進むべき。戻るべき、ではない。


第五章 三日目の境界

三日目の朝、ヴォルグは十人の狩人を連れて泉の手前に現れた。

「人間の子。お前は、もう十分だ」

ひかりは立ち上がった。ねんき、ほのお、みずへびが、背後に並ぶ。老婆は、狩人の列の前に杖を突き、立ちはだかった。

「この子を殺せば、境界は崩れる。伝承を読め」

「伝承は、古い女の戯言だ」

ヴォルグの剣が、老婆に向けられた。ひかりは、呼吸を整えた。心の糸を、狩人一人ひとりに張る。恐れ、疑い、正義——正義は、いちばん太く、いちばん切れにくい。

「正義の奥に、疲れがある」

ひかりは、ヴォルグだけに向けて言った。狩人のリーダーは、眉をひそめた。

「何を——」

「村が、人間の子を殺さないのは、掟だから。掟の奥に、お前は疲れている。毎年、石碑の前で祈っている。誰かが、越えてほしいと」

ヴォルグの剣先が、わずかに下がった。

その瞬間、森が唸った。番人が、再び現れた。今度は、逃げない。角を伏せ、突進する。

「散れ!」

老婆が叫んだ。狩人が左右に避ける。番人の体が、泉に向かう——壊すためではない。泉の光を飲み、記憶を封じるためだ。

「だめ!」

ひかりは走った。ほのおが、番人の角の前に炎の壁を作る。みずへびが、水で岩を滑らせ、足を止める。ねんきが、全身を広げ、膜の盾になる。

番人の角が、ねんきの膜を貫いた。

時間が、遅くなった。ひかりは、ねんきの体が薄くなるのを見た。光の粒が、風に散る。名前だけが、残る。

「ねんき——」

掟だ。倒れたら、もう二度と。復活しない。

ねんきの体は、草の上に、小さな水たまりのように残った。それ以上、動かない。

番人は、止まった。赤い目が、ひかりを見る。悲しみ——いちばん初めて、番人の目に読んだ感情。

ひかりは、膝をつかなかった。立ったまま、涙を飲んだ。心の糸は、まだ残っている。ねんきとの糸は、切れていない。切れない。相手が消えても、糸は、空に残る。

「……ありがとう。ねんき」

ひかりの声に、番人が反応した。角を引き、森の暗がりへ退いた。封じるためではなく、試したのだ——岸の子が、損失を背負っても、前に進むか。

ヴォルグは、剣を鞘に収めた。

「……お前は、まだ子だ。それなのに」

「子だから、進めるのかもしれない」

老婆が、ひかりの肩に手を置いた。

「泉の記憶を見たのだな。選べ。今日が、境界の日だ」

ひかりは、泉を振り返った。水面は、まだ光っている。三つの道が、光の筋として浮かぶ。

一つは、村へ戻る。人間の子として、受け入れを求める——受け入れは来ないかもしれない。それでも、守る者がいる。

一つは、留まる。森の岸に、新しい石碑を立てる。断絶を、盾から橋へ変える。

一つは、越える。人間の世界へ。レンと妹がいる世界へ。泉の水を持ち、別の岸へ。

胸の鐘が、澄んだ音を立てた。戻るべき、ではない。進むべき、だった。

「越える」

ひかりは言った。ほのおとみずへびが、左右につく。老婆は、泉から小さな石を取り、ひかりの手に置いた。

「境界石。向こうで、石碑が閉じるとき、これを置け。閉じるのではなく、扉にするのだ」

ヴォルグは、道を開けた。狩人は、剣を下ろしたまま、ひかりを見送る。

泉の光が、道を作る。光の道の先に、別の空。人間の世界の、栗色の髪の少年が、手を振っている。

ひかりは、一歩、踏み出した。

背中で、草の上の水たまりが、最後に一度、光った。ねんきの名残りだ。風が、その光を、ひかりの耳元まで運んだ。

**行っておいで。**

声は、言葉ではなかった。それでも、ひかりは聞いた。

「行く」

と、答えた。


光の道を歩くあいだ、ひかりは、振り返らなかった。振り返ると、ねんきのいない森が、見えてしまうからだ。いないのではない。形を変えただけだ。草の上の水たまりは、まだ光っている。風は、名残りを運んでくれる。

人間の世界の石碑の前で、レンが待っていた。妹を背負い、目を潤ませている。

「来た」

「うん」

「村の狩人は?」

「送ってくれた。老婆も」

レンは、妹を下ろし、泉の水を飲ませた。女の子の呼吸が、明らかに深くなった。色が、頬に戻る。

「……本当に、助かった」

ひかりは、境界石を石碑の足元に置いた。石は、温かく脈打ち、文字が変わる。**扉。**

モンスターの世界の方から、ほのおの光が、一度だけ閃いた。みずへびの水音が、風に乗った。ねんきの、ぷるり、が、耳の奥に残った。

**行っておいで。**

もう一度、風が言った。ひかりは、人間の世界の空を見上げた。星は、同じ並びだった。

「ここに、しばらくいる」

ひかりは言った。レンが、驚いて振り向く。

「越えた。でも、旅は、終わらない。扉を開けた。閉じないで、いてほしいから」

「……うん。閉じない」

二人は、石碑の前で、並んで座った。妹が、小さな声で言った。

「おねえちゃん、森の子?」

「ひかり。岸の子、って言ってくれると嬉しい」

「岸の……子?」

「ねえ、両方の世界の、あいだに立つ子、だよ」

女の子は、わからない顔で、それでも、手を伸ばした。ひかりは、その手を取った。人間の手。温かい。

遠くの森で、番人が、角を下げる。ヴォルグが、剣を地に突く。老婆が、灯籠を掲げる。

断絶の森は、もう、断絶だけの森ではない。扉の森になった。

ひかりは、それを知りながら、新しい朝を待った。物語は、次の章へ進む。人間の町。偏見。希望。そして、再び、境界を訪れる日。

ねんきの分まで、歩く。それが、ひかりとの、境界の約束だった。


エピローグ 扉のむこう

人間の世界の空は、少しだけ明るかった。

レンが走ってきて、妹のもとへ連れていく前に、ひかりに水を渡した瓶を受け取った。瓶の中の泉の水は、ねんきの膜で包まれ、こぼれない。

「助かった。……本当に、ありがとう」

「断絶は、古くなっただけかもしれない。けれど、越えるのは、まだ怖い」

「僕も」

レンは、笑った。人間の子の笑い方。ひかりも、笑ってみせた。

境界の石碑——人間の側——は、「渡るな」と刻まれていた。けれど、その下に、新しい文字が浮かんでいた。

**渡るな、けれど、扉は開けよ。**

ひかりは、老婆から渡された境界石を、石碑の足元に置いた。石は、温かく光り、石碑の文字が、ゆっくりと書き換わる。

**扉。**

モンスターの世界の方から、風が吹いた。風の中に、ほのおの翅の音、みずへびの水音、そして、ねんきの、ぷるり、という震え。

ひかりは、振り返った。森は、遠くに見える。岸は、もう一つではない。岸は、橋になった。

ヴォルグが、森の入り口で、剣を地に突き、会釈した。老婆は、灯籠を掲げ、小さく手を振った。

ひかりは、人間の世界に、留まることにした。レンの妹が、水を飲んで、色を取り戻すのを見てから、村を出る。出て、また境界を訪れる。ほのおとみずへびと、空に残るねんきの糸と。

それが、三日目のあとに決まった、ひかりの歩き方だった。


**あとがき(著者より)**

この短編は、ブラウザゲーム『断絶の森』の世界観をもとにした独立した物語です。ゲームでは「仲間が倒れたら二度と復活しない」という厳しいルールがあります。小説でも、ねんきスライムの喪失はそのルールを尊重しています。

続編では、人間の世界での偏見、レンの妹、その先の「断絶の起源」を扱う予定です。よければレビューで感想をいただけると、次の一歩の参考になります。


**収録クリア後の、あなたへ**

もし、この物語を読み終えて、胸の奥が少しだけ鳴ったなら、それは、ひかりと同じ鐘の音かもしれません。鳴ったなら、境界の向こうに、まだ歩ける道がある証拠です。

ブラウザゲーム『断絶の森』では、スペースキーで物語が進み、草むらで野生のモンスターと出会い、「たたかう」「こころ」「にげる」から選びます。小説では、選択の重さを、ねんきの喪失という形で描きました。プレイ中に仲間を失った経験があるなら、きっと、ひかりの沈黙が、伝わるはずです。

失った仲間は、戻りません。けれど、名前は、風に残ります。風は、境界を越えます。越えた先で、誰かが、その名前を、もう一度、呼ぶ日が来るかもしれません。

あなたが、誰かの名前を、もう一度呼ぶとき、森は、静かに、葉を揺らすでしょう。

—— 断絶の森より


第七章補 ねんきの残り香

扉を越えたあと、人間の世界の町で、ひかりは、草の匂いを嗅いだ。

石畳の路地に、草はない。けれど、風が、境界の方から吹いてくるたび、短い草の匂いが混じる。混じるたびに、肩が、軽くなる。そこに、ねんきがいたような錯覚が起きる。

レンの妹——ミオ——は、回復した。泉の水と、人間の薬が、ようやく噛み合った。ミオは、ひかりの手を、毎朝握る。

「おねえちゃん、今日も森の匂いする?」

「する。ねんきが、送ってくれる」

ミオは、わからない顔で、それでも頷いた。子どもは、説明より、手の温かさを信じる。

レンは、石碑の番を引き受けた。人間側の入り口で、毎日、文字が変わっていないか確かめる。変わったら、ひかりに知らせる。知らせる手段は、風に乗せる、と老婆が教えた方法だけだ。

「風、届くかな」

「届く。ねんきが、膜で包んだ、あの方法。覚えてる」

レンは、苦笑した。スライムの膜で、メッセージを運ぶ。人間の世界では、ばかげている。ばかげていて、うまくいくことが、岸の子の周りには多い。

ひかりは、夕暮れに、石碑の前で、目を閉じた。心の糸を、長く伸ばす。伸ばした先に、ほのおの光、みずへびの水音、老婆の灯籠、ヴォルグの剣の柄、そして——

草の上の、小さな水たまり。

水たまりは、脈打った。

**元気?**

言葉ではない。震えだ。ぷるり、という、ねんきの震え。

「……元気。あなたは?」

水たまりは、光った。光は、怒りではない。見守りだ。

人間の世界の子どもたちが、ひかりを指差す。森の子、と囁く。怖がる子もいる。ひかりは、怖がらせないように、心の糸を、短く、やさしく張る。糸は、敵意を解かない。解くのは、時間の仕事だ。

夜、ミオが眠ったあと、レンが言った。

「明日、扉の向こうに、一度だけ行く?」

「行く。老婆に、境界石の報告を」

「危ない」

「危ないけど、閉じない。閉じたら、ねんきのせいにならない」

二人は、石碑の前で、星を見た。星は、同じ並びだった。同じ並びの下で、ねんきは、もう形を持たない。けれど、名残りは、風に乗る。

ひかりは、空に向けて、小さく言った。

「ねんき。明日、一緒に行こう。形はなくても、いい」

風が、答えた。ぷるり、と。

それで、十分だった。


この補章は、第1作のあと、続編「扉のむこう」へ続く橋渡しである。ねんきを失った痛みは、消えない。消えない痛みを、抱えたまま扉を開け続ける——それが、岸の子の、いちばん人間的な強さだ。


間章 村の掟

モンスターの世界の村——ひかりには、正式な名前がない。外れの子が住む場所だから、「外れの村」と呼ばれる。村には、掟がある。

一つ目。人間を、村の中に置かない。

二つ目。境界の森に、人間を入れない。

三つ目。森で人間を殺さない。殺すと、境界が崩れ、両方の世界が、責め合うことになる。

四つ目。岸の子——どちらにも属さない子——が現れたら、泉へ向かわせよ。向かわせられないときは、外れに置け。置くことは、見捨てではない。待つことだ。

ヴォルグは、四つ目の掟を、いちばん嫌っている。待つことは、何もしないことのように見えるからだ。狩人は、剣で解決する訓練を受けた。待つ訓練は、誰も教えなかった。

「お前は、優しすぎる」

副官の狩人が、ヴォルグに言った。三日目の朝、泉の手前で、十人の狩人を集める前のことだ。

「優しくない。掟を守っているだけだ」

「掟は、古い女の作ったものだ」

「古いから、正しいことが多い」

ヴォルグは、剣を磨いた。刃は、月の光を吸う。磨いているあいだ、彼は思い出す。十年前的、自分が、石碑の前で泣いた夜。父が、境界の番人に襲われ、腕を負った。母が、人間の世界の薬を乞うたが、拒まれた。拒まれた理由は、断絶だ。

断絶は、両方を傷つける。傷つけたまま、何十年も続いた。

「人間の子が、森に入った。三日で引き出す、と言った。引き出せなかったら、どうする」

副官が問う。ヴォルグは、答えた。

「引き出す。生きて、引き出す。殺さない。殺したら、父の腕の痛みが、無駄になる」

「泉に行かせるつもりか」

「……ああ。岸の子は、泉で選ぶ。選ばせるのが、四つ目の掟だ」

副官は、黙った。黙ることは、同意ではない。けれど、従う。

老婆は、そのとき、ヴォルグの背後に立っていた。

「お前は、良い狩人だ。良い狩人とは、斬らない者だ」

「……古い女め」

「古いから、お前の父の怪我を、覚えている」

ヴォルグは、振り返らなかった。振り返ると、涙が、部下に見える。

「あの子が、越えるとき、剣を下ろせ」

「わかっている」

老婆は、灯籠を、ひかりに渡すために、森へ消えた。ヴォルグは、十人の狩人を、泉の手前へ導いた。導く道のりで、彼は、もう一つ決めていた。

岸の子を、英雄にするのではない。扉の番にする。英雄は、境界の外に出て、戻らないことが多い。番は、戻って、扉を開け続ける。

ひかりが、越える瞬間、ヴォルグは、剣を地に突いた。それは、敬礼ではない。誓いだ。——お前が戻ってきたとき、ここで、待つ、と。

森の向こうで、光が、一度だけ閃いた。ほのおの光か。泉の光か。ねんきの、最後の光か。

ヴォルグは、知らなかった。三つ目かもしれない。知らなくても、待つことに変わりはない。

村に戻ったあと、副官が言った。

「人間の子は、もう、森の子だ」

「ああ。森の子は、扉の子だ」

ヴォルグは、石碑の文字が、書き換わったのを見た。

**人間は入るな。**

その下に。

**けれど、戻ってこい。**

村の子どもたちは、新しい文字を、指でなぞった。なぞることは、覚えの儀式だ。外れの小屋には、もう、人間の子はいない。けれど、小屋は、倒されなかった。倒されないのは、いつか戻る者のための、空のベッドだ。

老婆は、袋を置きに、外れへ向かった。袋には、パンと、紙切れ。紙には、一行。

**ありがとう。待っている。**

誰宛てか、老婆だけが知っている。風が、森の方へ、紙の角を持っていく。持っていかれた先で、ひかりが、人間の世界の空を見上げている——ヴォルグは、まだ知らない。知らなくても、掟は、果たされた。

四つ目の掟。岸の子を、泉へ向かわせよ。

向かわせた。選ばせた。越えさせた。

ヴォルグは、剣を鞘に収め、村の祭りの太鼓の音を聞いた。祭りには、まだ参加しない。来年、扉の向こうから、森の子が、一度だけ、顔を出すかもしれない。出したら、太鼓の音は、敵意ではなく、歓迎になるかもしれない。

「……来年か」

ヴォルグは、つぶやき、笑わなかった。笑るのは、早い。けれど、来年という言葉を、口にしたこと自体が、もう、少しだけの変化だった。

外れの小屋の窓に、灯が、ともった。老婆が、灯を点けたのだ。誰の帰りを待つ灯か。老婆は、答えない。答えなくても、灯は、夜を通す。

断絶の森は、遠くで、静かに呼吸している。呼吸のたびに、葉が擦れ、水が流れ、ねんきの名残りのような光が、草の上で、一度だけ脈打つ。

誰も見ていない。見ていなくても、光は、あった。